大阪平野の聖ラインと活断層(1)

筆者はかねがね、人類の文明の起源の一つに地質現象があるのではないか、と考えていた。それは、各地の神話・伝説には地学的に解釈出来るものが多いということである。こういう考えは現在の考古学・古代史学の世界では異端かも知れないが、事実なのだから仕方がない。地学的現象の中でも、特に地震はインパクトが大きく、その地域・民族の集合的無意識の形成に深く関わったことが容易に推察される。大阪平野には活断層が発達し、それの活動に伴う地震の痕跡が多く残っている。これらと古代の遺跡との間にどういう関係があるのかを探ってみる。

技術士(応用理学) 横井和夫


 古代史の世界では、遺跡や宗教施設が直線状に並んでいる時、それを「聖ライン」と呼ぶことがある。1〜2年前、早稲田大学の吉村作治教授が、ナイル川左岸に生命が生まれる地域(東側)と、死者が赴く地域(西側)とを分ける聖ラインが存在するという見解を発表した。
 イギリスでは、ドルメンやカセドラルといった古代の遺跡や大教会が直線に並ぶことがある。これは地下に直線の地下水脈があり、それらが交叉する所に泉が湧く、遺跡や大教会はそういった泉の上に立っている、と主張する人たちがいる。この地下水脈を探すのに使うのが例のダウンジング。これも聖ラインである。
 そういえば、かつて神戸に、直線状の地下水脈(リニアメントと称する)があり、それの交差点で湧水が生じ、斜面崩壊や地すべりの原因になる、と宣わった大先生がいた。このリニアメントを描いた画を持っていくと、どんな役所もハハーッとなるのでこれも立派な聖ラインである。私はこのリニアメントを描く裏を見てしまったので、馬鹿馬鹿しくなってあの世界に付き合うのを止めた。さて、あの先生は未だ生きているのだろうか。
 日本で一番有名な聖ラインは、奈良東大寺南大門から、飛鳥、吉野を経て、熊野新宮大社に至る南北の線である。この上に高松塚やキトラ古墳などが載っている。では、大阪には聖ラインはないのだろうか?あるふとした思いつきから、大阪に聖ラインがあるかどうか調べてみました。すると、あるある、二つも三つも出てきました。それらの分布を調べて見ると、色々面白いことが判りました。ではその様子を眺めてみましょう。

1、聖ラインの分布
 下の図は、大阪平野の1/20万地形図に、古墳、主要神社・寺院の分布をプロットしたものです。古墳は原則として1/2万5千地形図に記載されているもの。記載されていなくても、地域で有名なものは取り上げています。神社・寺院は数が多いので何処までをとりあげるか、基準の設定は難しい。一応、次のようにしています。神社は原則として式内社だが、式外でも地域の有力神社は取り上げます。寺院は開基の古い雑密系寺院が良いと思います。真宗や日蓮宗は全く無関係。天台・真言系はやや難しいですが、一応無関係ということにしておきます。

1)Aライン・・・・大阪平野北端に位置し、兵庫県宝塚市を西端に、池田・箕面を通って高槻市で淀川に至るラインです。この上に宝塚の清荒神・中山寺(中山古墳)、池田の鉢塚古墳、茨木・高槻の三島古墳群や、上宮八幡宮が分布します。これから外れますが、伊丹の昆陽寺、猪名野神社は面白い分布をしている(理由は後述)ので、A1として取り上げておきます。
2)Bライン・・・・現在の大阪市中心部を南北に縦断する線です。北野天満宮から始まり、生玉神宮・茶臼山古墳・帝塚山古墳、住吉大社を経て、大和川に至り、その後やや方向を変え、仁徳天皇陵他を経て南端の鳳神社に至る。大和川以南の古墳(百舌古墳群)の分布を詳しく見ると、2列(B1、B2)に枝分かれしているようです。
2)Cライン・・・・大阪平野東端(生駒山麓)に沿う線です。四条畷付近を北端とし柏原付近で大和川を渡り、羽曳野丘陵に至る。大和川の北では古墳・遺跡は少ないのですが、南部ではやたら〇〇寺という地名(図中()印)が多いので、それに注目してみました。これも大和川の南の古墳分布(羽曳野古墳群)では、やや方向を変え、2列(C1、C2)に枝分かれします。

 この図を見ると、古代宗教施設の分布が一様ではなく、空白地帯が見られることが判ります。
   (1)Aラインから淀川の間
   (2)西大阪(Bラインの西)
   (3)BラインとCラインの中間

 要するに、古代の宗教施設分布に偏りがあるということです。これは一体どういうことでしょうか?現代なら土地価格や便不便で、土地開発に偏りがあるのは判ります。しかし、古代だから土地の値段など安いものだし、地上げに反対する住民パワーも強いとは考えられません。何か他の理由があるはずです。この場合、自然的要因が関係することが多いので、まず地形との関連を調べてみます。

2、地形との関連
 下の図は大阪平野の地形区分と、宗教施設分布との関係を重ねたものです。

先に述べた施設分布の空白地帯の多くが、沖積平野に重なっていることがわかります。沖積平野は、古代では一面の人も住めない湿地帯、いわゆる軟弱地盤地帯で、当時の技術では古墳のような大きな盛土や、大規模な構造物を築造出来ません。だからこういう地域が施設の空白地帯になっても当然です。しかし、淀川以北では、千里丘陵や伊丹台地のように地盤がしっかりしているにも拘わらず、施設が殆どありません(千里では全く無い)。大阪市内では、施設は上町台地西縁に偏っています。地盤がしっかりし、土地にも余裕のある台地中央部にはそれが見あたりません。「難波の宮」や「四天王寺」がこれら施設の建設を妨げていたのではないか?という意見もあると思いますが、何れも台地の一部を占有しているに過ぎず、全体をコントロール出来る規模のものではありません。
 大和川以南では、西の堺市百舌鳥古墳群と東の羽曳野古墳群の間は顕著な空白地帯ですが、地形的には皆同じ「泉北台地」に属します。
地形的に見れば、A、B、Cの3ラインは何れも大阪平野の骨格を作る地形変換点に一致していることが判ります。つまり、Aラインは北摂山地と大阪平野、Bラインは上町台地の西縁、Cラインは生駒山地と河内平野の境界、という具合です。一体これは何を意味しているのでしょうか?

3、地質との関連

 地形との関連で未だ判らなければ、より本質的な地質と相談するのが理の当然です。地質といっても種類が豊富で、何を使えば良いか判らない。しかし、この問題は古代の土地利用や地形に関連しているらしいということも判ります。これに最も関係の深い地質現象は「活断層」です。
 下の図は大阪平野の主な活断層と、地形区分、施設分布を重ねたものです。

 これを見ると、古墳や神社・寺院の分布が、活断層の分布と恐ろしいほど一致していることが判ります。いや、これは単なる偶然、画だけでの話しだ、とお思いの方も居られると思いますので、以下に具体的にもう少し細かく見ていきたいと思います。(続く)


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