「藤圭子」と「昭和枯れすすき」の時代

これはかなり重い命題ですが、圭子の自殺を受けて、世の中には様々な説が飛び交っている。その中にはかなりいい加減なものもある。誤りは糺さなくてはならない。敢えてあの時代を振り返ってみよう


 玉置宏じゃないが「唄は世に連れ、世は唄に連れ」と言う言葉がある。これの意味は、ある時代に流行った唄は、その時代の世相を反映しているということである。これを裏返すと、ある時代に流行った唄を分析すれば、その時代の世相が判る、ということになる。世の中には、これをそのままに受け取って、時代の分析をしようとする人がいる。本当でしょうか?
 何故こんなことを云うと、第一に、藤圭子の自殺直後、偶々某テレビ番組をも見ていると、作家のなかにしれいが、藤圭子演歌の流行を、70年安保闘争と引っかけて解説していたこと。第二にNHKのラジオ番組で昭和の唄特集をやっており、その中に「昭和枯れすすき」があって、ゲストの誰かが「ボクは暗い唄が嫌いでねえ」などとふざけたことを喋っていたことである。
1、まず第一の問題から検討してみよう。作家は60年安保闘争から説き明かし、藤圭子演歌の思想的背景を解説する。では60年安保闘争とは何だったのか?
〇これはサンフランシスコ講和会議に際し、日本側が戦争放棄を確約し(と言うことは、当時国内外に再軍備の動きがあったと云うこと)、その担保として日米安保条約を結んだのである。この条約の最も重要な点は、日本が国防自主権を放棄したと云うことである。事実上日本のアメリカ属国化を認めた条約だ。処がこれに反対したのが左翼。服従したのが自民党を始めとする愛国保守・右翼と言うのが不思議なのだが、彼等はこの条約体制下で大きな利権が得られると踏んだのだろう。確かにその後の自民党の隆盛や、右翼との繋がりを見ると、その通りだ。
〇60年安保闘争の1年前に三井三池闘争と言うのがあった。これを主導したのは、社会党左派の中でも最左派と言われる社会主義協会。この闘争には日本共産党は殆ど関与していない。何故しなかったというと、内部問題でそれどころでは無かったのだ。55年ソ連の平和共存路線発表と、それに続くハンガリー動乱で、世界中の左翼は分裂と混乱に陥ってしまった。日本共産党もその例外ではなく、非暴力合法革命路線の主流派(宮憲派)と、世界同時革命を主張する反主流派に分裂した。60年安保闘争は、この内、日共反主流派、なかでも東大細胞の主導で行われた。その所為か、この闘争には社会党はいささか及び腰。しかし作家はこれを革命前夜と評価する。それは東京という狭い地域でそう思われただけで、筆者のいた兵庫県では、全くその気配はなかった。つまり、中央(東京)と地方との解離は、既に始まっていたのである。昨年来から首都で行われている反原発デモに、地方在住の筆者が感じる違和感と共通するのである。
〇この闘争は結局は体制によって押さえ込まれるのだが、作家はその後出てきた永六輔作曲の「上を向いて歩こう」を、一旦挫折した闘争の再起を期する唄と評価するのである。そうでしょうか?60年代前半というのは、60年安保闘争による日本全体の左傾化を元に戻し、新たなパラダイムとしての経済高度成長を実現した時期である。と言うことは、永六の唄は闘争再起の唄ではなく、高度成長を期待する民衆の、自民党・体制賛歌なのである。永六輔や中村八大が、バリバリの日共秘密党員ということは誰でも知っている。そんなアカクズレがこんな経団連賛歌を作るなんて!こんな馬鹿馬鹿しいことはない。
 しかし筆者は、誰のファンかと云われると、やっぱり岸洋子さんなのである。あの圧倒的歌唱力の前では、右翼も左翼もないのかも知れない。
〇62〜63年頃、いきなり流行ったのが「青春応援歌」である。例えば吉永小百合「寒い朝」、島倉千代子「この指を両手に挙げて」、更には舟木和夫「高校三年生」。別に筆者はこれらの歌を嫌いと言っているのではない。それどころかカラオケでは大いに謳うである。世の中はこれら青春応援歌を、当時の高度成長期に合わせ、貧しい時期から豊さへの希望の唄と解説している。筆者も、つい最近までそう思っていた。しかし、そうだろうか?
 50年代の大衆の夢に、テレビ・洗濯機・冷蔵庫という、所謂三種の神器と、公団住宅に代表されるアメリカ型生活があった。60年頃には、それの殆ど70%は実現されていたのである。高度成長経済は、それを100%まで拡張する政策に過ぎなかったのである。それから2年も3年も遅れて、何故そんなことを繰り返さなくてはならなかったのか?
〇話しを政治の場に戻そう。60年闘争後、共産党は宮憲主流派とアンチ宮憲反主流派に分裂し、反主流派は共産党を離れて革命的共産主義者同盟(ブント)を結成した。彼等の目的は10年後の70年安保に向けて、反体制諸勢力を結集し、体制転覆を狙うことである。確か67年頃だったと思うが、革共同を中心に、アンチ日共左派諸勢力が結集し「新左翼」を結成した。新左翼による反安保闘争は、実質的には68年10・21国際反戦デー(東京では新宿騒乱事件、大阪では御堂筋デモ・・・・あれはなかなか面白かった)で終わった。更に69年東大紛争で、左翼の敗北は決定的なものとなり、新左翼は四分五裂(今の野党勢力のようなものだ)、一部は過激派路線へ、一部は他大学に潜り込んで全共闘活動へ、一部は転向して企業や官庁サラリーマンへと分散していったのである。
〇藤圭子の歌手デビューは69年9月。引退は79年とされるが、実質的に活躍したのは前川清と結婚する71年までの、僅か3年ぐらいに過ぎない。当時世間は藤圭子の唄を「怨歌」と表現した。しかし、彼女(或いは彼女に唄を吹き込んだ音楽家達)は、何を怨んでいたのでしょうか?前に述べた68/10/21を契機に、闘争の場は、街頭から大学キャンパスに移った。所謂全共闘の時代である。主役は昭和23年以降産まれた所謂団塊世代。彼等を後ろで操っていたのは、やっぱり60年安保クズレの元日共反主流派なのである。
 この全共闘運動も69年東大闘争を最期に、収束していった。その頃巷に流行ったのが、東映ヤクザ映画と藤圭子の「怨歌」というサブカルチャーだったのである。全共闘の挫折が社会的な敗北感を産み、それが各種サブカルチャーを産んだという説明がよく為される。しかしそれは間違いである。彼女はその前からデビューしているし、全共闘とは全く関わりはない。当時の学生が全共闘に参加した理由は、別に大学改革でも体制変革でもない。要するに女の子をナンパしにいっただけなのである。
〇当時の世相を見てみると、かつて無い程の好景気。70年には大阪万博・山陽新幹線の開通。就職率は100%で、全員正社員。そもそも今のような、契約とか非正規社員という概念すらなかった。元全共闘で、暴れまくっていても経歴を隠しておけば、就職は間違いない。当に天国のような時代だ。さて、何を怨んでいたのでしょう?怨んだ人間は大体判っている。一つは元々体制変革を狙っていたが、肝心の大衆に無視され、変革どころか自分の居場所さえ判らなくなった。それにも拘わらず、自分達が絶対正しいと信じ込んでいるアホ達。具体的には竹中労とか、最近死んだ若松孝次といったところか。若松なんて、あんなのが最近まで生きていたと言うのが脅威だ。とっくに抹殺すべきだったのだ。作家もその内の一人かもしれない。もう一つは、彼等の云うことを真に受けて、世間は自分らのものになると勘違いした、全共闘クズレのアホ達かも知れない。しかし、彼等は怨んだ振りをしていただけに過ぎない。何故なら、彼等はその振りだけで、しっかり卒業して就職し、更にしっかり給料アップを狙い、金を稼いでいたのである。つまり、戦後の高度経済成長を最も上手く利用したのが、彼等団塊全共闘世代*なのである。
〇この頃、流行った歌謡芸能に、グループサウンズと称する得体の知れないものがある。無思想と言うか、何というか、訳が判らないのである。しかし、大衆はその派手々々さに圧倒され、大ブームとなった。 何故こんな物がいきなり出てきたのでしょうか?実はこれ、前に述べた青春応援歌と同様、ある時期に必ず現れるのである。もう一つ重要なものがフォークである。グルサンもフォークも似ているが、全く違う。しかし違っているようで、根底では似ているのである。この怪しい時代、藤圭子はどう思っていたのでしょうか?
 フォークは67年頃、アメリカのベトナム反戦運動の中で産まれてきたもの。日本のフォークも概ねその頃に産まれた。当初の岡林や高石ともや時代は、確かにプロテストソングで、これは藤圭子と時代的には共通している。しかし、72〜73年代以降に出てきたタクローやさだまさし等の保守系シンガーソングライターには、これら思想性は全くなく、完全に変質してしまったのである。彼等が作ったのは、毒にも薬にもならないが、銭には十分になった自民党推薦青春フォーク。
〇藤圭子の時代とその後は、実はグループサウンズと無思想フォークに画一化された、或いは画一化されようとした時代だったのである。その中で圭子演歌は、やはりかなり特異性を持っていた。あの独特のしわがれ声は、後の悪声歌手の誕生に大きな影響を与えた。つまり、従来の保守系演歌の主流から、はみ出したのである。画一化からのはみ出し、これは次ぎに述べる75年前後ナニワド演歌とも共通するのである。

*三年前民主党政権が誕生したとき、最初の閣僚の履歴を検討したところ、約半数が団塊全共闘世代だったことに吃驚した。こりゃダメだと思ったが、本当にそうなってしまった。

2、昭和枯れススキの時代
 先に挙げたゲストは、どうもこの時代・・・70年代後半・・・を、「暗い時代」と思いこんでいたフシがある。しかし、現実はそうではない。確かに71年のドルショック、73年のオイルショックで日本経済は大打撃を受けたが、円レートは未だ300〜320円台。世界の家庭電化製品の半分以上、高級カメラの90%以上は日本が生産していた。韓国・中国など新興国など、眼中の外。大卒就職率は贅沢さえ言わなければ100%。シュウカツとかブラック企業*なんて言葉は無かった。かつての高度成長期に比べれば厳しくなったが、やっていけないことはなく、少なくともバブル崩壊以降の現在よりは、遙かに暮らしよかった時代だったのである。
*シュウカツ、ブラック企業というのは、今の若者が圧倒的支持を示している、コイズミ改革以降に出来た言葉。コイズミ改革の最大被害者が、最大加害者(自民党)を支持する矛盾よ、これ如何に。
〇安保・全共闘が押さえ込まれた72〜73年代以降、世の中は静穏に収まったでしょうか?なかなかそう上手くはいかない。71年にはドルショック、72年にはオイルショック、それに続く狂乱物価。これにロッキード事件が加わって、たちまち巷には反自民的気運。これはイカン、なんとかせねば。
〇かつての三井三池争議以来、日本の労働界は政治問題には、常に日和見を決め込んできた。ところが70年代後半以降、労働組合が急に左傾化する。その現れは、国鉄反合理化闘争。その現れが千葉動労騒動や、国鉄順法闘争である。たった5万人の動労に20万人の国鉄労働組織が引きずり回された。そして動労を操っていたのは、3000人に過ぎないカクマルとそのシンパなのである。更にこの流れは、成田三里塚闘争に受け継がれ、70年安保以来の大騒動になった。何となく日本が再び左傾化した様な状態だった。しかしこれを主導したのは、かつての三派クズレ。だから長続きしなかったのである。
○この頃巷に流行った唄は、タクロー的体制フォークとか、百恵的童謡のような、毒にも薬にもならないが、銭にはなる自民党連携歌謡。その中でピンクレデイーという社会現象が注目される。お陰で世の中、明けても暮れても、フォークと百恵とピンクレデイーに画一化されてしまった。
○この中で大阪を起点に、ある演歌がじんわりと広まりだした。72年にはピンカラトリオ「女の道」、73年には殿様キングス「涙の操」、そして74年サクラと一郎「昭和枯れススキ」、所謂ナニワド演歌三大作である。但し、この種の唄は発売から売れ出す迄、大体3年は必要なので、実際には75年以降、70年代後半の唄と考えるべきである。いずれも公称200万枚突破、「・・道」や「・・操」は公称の2倍は売れたと言われる。本当にどれだけ売れたか、判らないのである。この勢いに呑まれ、あのNHKでさえ、音楽的にどう考えても優れているとは云えない、このド演歌を紅白に出さざるを得なくなった。その数年前に、実は「浪曲子守唄」というド演歌があったのだが、これも紅白に出ている。世の中、変わってきつつあったのだ。
〇何故この時代、この古風なド演歌がこんなに売れたのでしょうか?これの分析は、それ自体一つの社会学的研究テーマである。文学の世界に比較すると、演歌は私小説の世界である。私小説とは、主人公とその周辺の私的生活をテーマにしたジャンルである。そこでは外部の社会や政治との関わりは、無視又は軽視される。ド演歌とは、それを極限まで持っていったジャンルである。世の中のことはどうでも良い、という世界なのである。ところがフォークは、何らかの形でメッセージ性を持っている・・・タクローのような馬鹿でもだ。それは外部社会との関わりを意識していることに他ならない。ピンクレデイーの童謡は、社会との関わりを無視しているという点で、私小説的だが、肝心の主人公がいない。唄の主体がないのである。これでは童話になっても、小説にはならない。
○当時の日本企業生産の主翼を担ったのが、30〜40代サラリーマン。彼等は、会社内での上下・水平関係とか、発注者・下請けと言った周辺・社会関係に気配りしなくてはならない。ところが世の中に流行るのは、フォークのような社会関係意識歌謡で画一化されていた。なんとなく謳っている内に、同僚や部下や女房の顔が浮かんでくる。これでは飲みに行っても気が休まらない。そこに突如現れたのが、ナニワド演歌。これなら自分の世界に浸れる。唄っている時は、会社も役所も関係ない。特にサラリーマンが「昭和枯れススキ」を謳うときに力を入れるのは、2番の歌詞「・・・力の限り生きたから・・・未練などないわあー」というフレーズ。このとき彼は「よっしゃ、明日会社に辞表たたきつけてやる」と思っている。ところが夜が明けて、酒の酔いも醒め、女房子供の顔を見ると、たちまちその元気もなくなり、「二人は枯れススキイー」になってしまうのである。
○冒頭に挙げたゲストは今では40代と思う。彼や、彼が属する世代は、「昭和枯れススキ」の時代をどのように思っていたのでしょうか?筆者は日本社会画一化が、更に進んだ時代の始まりであり、「昭和枯れススキ」に代表されるナニワド演歌三大作は、画一化に対する民衆由来のアンチテーゼであったように思えるのである。
 そして大事なことがもう一つある。60年代の青春歌謡、70年代のグループサウンズ、70年代後半のさだまさし的フォークやピンクレデイーに共通するものは、作詞・作曲は当時の大物とか、それなりに名が売れた作詞・作曲家、バックに大手レコード会社が付いていることである。売り出しも当時最先端のメデイアを使っている。当に日本音楽産業の主流が作ったブームだ。ところが昭和50年代ナニワド演歌は、「・・・道」も「・・・操」もみんな自作自演、自主制作。おまけに唄っているのはプロ歌手ではなく、下手な漫才師。「・・・枯れススキ」は一応プロの作詞作曲家が作ったようだが、あまり名前も聞いたことがない。その連中がやっつけ仕事で作った歌で、唄っているサクラと一郎というのも聞いたことがない。売れ出したのも、大手レコード会社ルートではなく大阪の有線から。いわば東京的音楽産業の主流から外れた唄なのである。こういう唄は普通流行する筈がない。

3、改めて両者の背景を検討し直してみよう。
〇戦後日本歌謡の背景には、何かある種の力が見え隠れする。例えば60年安保で日本社会が左傾化すると、永六や吉田正的青春歌謡が作られ、世間を中和する。吉田正など、それまではマヒナスターズとか松尾和子のような、退廃的資本主義歌謡を作っていたのが、いきなり「寒い朝」のような疑似社会民主義的歌謡を創り出した。それは彼だけでなく、他の作曲家も同様である。おそらく政府の誰かからの指示・要請があったのでしょう。何のためでしょうか?筆者はこれを70年安保闘争対策と考えていた。ところが今考えてみると、これらの目的は安保対策ではなく、実は東京オリンピックに向けての国民精神動員歌謡だったのだ。そして7年後の2020年、第二回東京オリンピック。おそらくこの後、形を変えた国民精神動員歌謡が産まれるでしょう。
〇そして70年安保時代となると、無思想刹那主義の典型グループサウンズ。70年安保闘争など何処吹く風。作家なかにしれいも、この路線で随分稼いだはずだ。これ又思想中和路線。そして70年代後半のピンクレデイーと体制的フォークの流行。この背景には成田三里塚闘争があった。これらの現象に共通するのは、国民の意思・動向が反体制(つまり自民党一党独裁)或いは体制批判方向に動けば、必ず無思想ミュージックが巷、と言うよりテレビ画面を独占する事により、一般大衆を自民党支持に揺り戻すのである。ここには一貫して、ある意志が働いている。その道具に使われたのが、それぞれの時代の音楽家や歌手達。しかし道具だから用事が済めばポイ捨て。その証拠が舟木一夫であったり、グループサウンズであったり、ピンクレデイーなのである*。その意志とは、日本人の方向を反体制方向に向けないこと、そして日本人の民族性を画一化する事である。画一化された民族ほど御しやすいものはない。
 実際筆者の経験では、75年代後半卒の新入社員の特徴に、顕著な保守化がある。彼等が育った背景が、前述のタクロー的サダマサシ的体制フォークなのである。
〇1970年大阪万博。この年山陽新幹線が開通し、東京・博多間が直結した。これに伴い、航空会社も東京・九州便を増便し出した。これで何が起こっただろうか。それは人の流れの大変化である。高度成長期には、九州、中四国出身労働者は一旦大阪にやってきた。当時のミナミのアルサロのホステスには九州出身者が多かった。ところが、70年代後半以降は、彼女らはみんな直接東京に行くようになった。更に追い打ちをかけたのが、前述のドルショックと円高。これで輸出中心の大阪経済は大打撃。この打撃が頂点に達した75年前後に現れたのが、当時流行歌の主流を外れた、ナニワ三大ド演歌。ピンカラ兄弟「・・・・の道」2番、「暗い夜道をとぼとぼと・・・、・・・・きっと掴むわ幸せを、それが女(なにわ)の生きる道」、サクサクラと一郎「昭和枯れススキ」2番、「・・・力の限り生きたから、未練などないわア」。何となく大阪経済哀愁歌の趣があります。

 そして今、世の中はモーニング娘からAKB48一色。そして20年東京オリンピック。民族画一化の完成である。ところが、その体制による強固な檻からも、こぼれたものがいる。それが藤圭子であり、「女の道」始めナニワ三大ド演歌なのである。さすがの体制も、これらの暴れ馬には手を焼いただろう。
*その彼等も後悔して体制に寝返れば、復活出来た。藤圭子はそれがよく判らなかったようだ。
(13/09/09)