沖ノ島の謎(日本古代史の闇)

技術士(応用理学) 横井和夫


 蛇神信仰は古代からユーラシアから新大陸まで広く行われてきた習俗で別に珍しくはない。蛇神信仰の始まりは、蛇は脱皮を繰り返しその都度新しい個体となる。これは死と再生の繰り返し、つまり永遠の生命を物語る。更に一度に多数の卵を産むので豊穣のシンボルともされる。更にネズミやモグラなどの土地作物を荒らす小動物を捕食する。これらの点から一般には蛇神は農業神とされる。
 一方脱皮による変身から、これを金属精錬に伴う変成のシンボルと考え、金属神とするケースも多い。例えば蛇はインド錬金術では水銀のシンボルであり、中国では金のシンボルとなる。ギリシアでも金銀財宝、富のシンボルとされる。つまり蛇は財宝神ともなった。今でも大阪では蛇を「みーさん」と呼び、出会うと縁起が良いとされる。
 ではヤマトのオオモノヌシはどのタイプだったのか?
 先に挙げた箸墓伝説では、オオモノヌシは天地を鳴らして三輪山に帰ったというから、これは雷神である。雷は雨を伴うからオオモノヌシの属性に農業神・・・特に稲作・・・があったのは間違いない。一方、オオモノヌシが鎮座する奈良盆地南部は、先に述べたように、当時東アジア有数の水銀産地だったから、金属神としての属性も捨てきれない。一般に記紀神話で語られる出雲のヤマタの大蛇はスサノオ=天津神に対抗する抵抗勢力の様に語られるが、実体はむしろヤマトと一体化したヤマタ族とでもいうべき部族で、列島に鉄の採掘精錬技術を伝えた集団だろう。その起源はずばり朝鮮半島南部加羅国のあたりのはずだ。そして朝鮮半島南部から済州島にかけては、最近まで蛇神信仰が残っていたのである。
 朝鮮南部の伝説に、ある王女が僧と通じたため、箱に閉じ込められて海に流された。ついたところが済州島で、その時王女は蛇に変身し、更に6個の卵がいた。このうち一つは穀倉で飼われて穀倉神となり、一匹を祀ると、家は大いに富栄えたというのがある。つまり、蛇神は農業と財宝の二面性を持っていたことになる。
 では大嘗祭とは何か?その起源は古代蛇神信仰にあり、おそらく朝鮮半島からやってきた蛇神を信仰するオオモノヌシ族と、これもその前に中国本土あるいは朝鮮半島から渡ってきた稲作農耕民ヤマト族との一体化を確認する儀式である。儀式後、大嘗殿は取り壊されるがこれは蛇の脱皮を象徴する儀式と考えられる。そう考えれば、日本では伊勢神宮始め、住吉大社、出雲大社等の大手国津神神社では式年遷宮が行なわれる。これも蛇の脱皮の象徴化か?以上は大嘗祭に対するフレーザー流あるいは柳田流解釈。無論、折口民俗学派はこれを受け入れないだろう。(終わり)
(19/11/26)

 オオモノヌシの目的はさておき、これが国津神のドンとなったのは事実。ヤマトにやってきた天津神(後にカンヤマトイワレヒコと呼ばれる人物に率いられた集団でとりあえずジンム族*と呼ぼう)は物部氏の支持でヤマト支配権を得たものの、まだまだ祀ろわぬものが多い。それは各地の既存勢力(国津神)である。例えば中国の出雲や吉備族。北陸のコシ族、東海の尾張族等である。その他関東には蝦夷、九州にはチクシや隼人など。
 これらを制圧するにはオオモノヌシの支持と援助が無くてはならない。その同盟関係を確認する儀式が大嘗祭だ。その後これが天皇代替わり毎に行われるようになった。これは別に珍しいことではなく、一般に朝貢関係にある二国の内、貢納国が代替わりするとき、両国間で代替わりを確認する儀式は普通に行われいた。
 では大嘗祭のもう一つの主人公であるオオモノヌシとは何者か?古事記崇神天皇紀に、王女のヤマトトトヒモモソ姫の下に毎夜一人の貴人が現れた。ある時姫が「あなたは誰ですか?」と尋ねると貴人は「私は三輪山の7オオモノヌシである。人ではない。決して私の姿を見ないように」と云ってカーテンの陰に隠れた。しかし好奇心に駆られた姫がカーテンを開けるとそこには一匹の小さな蛇がいた。するとたちまち元の貴人の姿に戻り「あなたは私に恥をを搔かせた」と云って、天地を鳴らして三輪山に帰って行った。その後モモソヒメは自分の櫛で陰部を突いて死んだ。そんなことで死ねるのかなあ、と思うのは後世の俗人。姫の亡骸を葬ったのが今の箸墓古墳と云われる。
 また同武烈天皇紀では、天皇の威に祀ろわぬオオモノヌシを退治しようと、三輪山に棲む大蛇を引きずり出して殺してしまったという。その祟りか応神王朝は武烈天皇で途絶え、20年近いブランクを経て継体天皇がスメラミコトとして即位した。継体が現天皇家の直系の祖先である。この時継体擁立に動いたのが物部氏である。つまりその後の継体王朝の成立には物部氏(=オオモノヌシ)の存在が欠かすことが出来なかった。この関係の確認がその後の天皇代替わりの儀式となったのである。つまり国津神の大ボス、オオモノヌシの正体は蛇である。これは、日本古代史を考える上で、結構重要な視点である。
 なお神武東征紀でもヤマト五王はイワレヒコをトップに推戴するには異論があった。しかし最終的に物部がイワレヒコ支持に回って結論がでた。この点が継体帝擁立とそっくりなので、古事記神武東征紀は継体天皇紀のパクリではないかと噂される所以になっている。
 と考えると大嘗会で、天皇の前の長い寝台に横たわるナニモノか何かが分かる。ズバリそれは蛇である。しかし現代では本物を使うとは思われず、せいぜい稲わらで作った模造品だろう。例えば今でも京都鞍馬寺では、稲わらで作った大蛇を僧兵が切断するという儀式が行われている。しかし上代では本物を使った可能性は高い。
 こんな恐ろしい儀式に耐えられる人間はそうはいない。それに耐えられるからこそ、大王でありスメラ尊と讃えられるのだ、という見方もあるだろう。確かにそうかもしれないが、その後蘇我氏によって物部氏は滅ぼされ、天皇家のイデオロギーが仏教主流になるにつれて衰退していった。
 大嘗宮儀式が近づくにつれて、マスコミには深夜の秘儀を天皇とアマテラスとの会話の儀式と云う解説が出回っている。しかし筆者はこの類の解説を全く信用していない。おそらく大嘗祭公開のために、アベの威を汲んでアベ派の学者が苦し紛れにねつ造した与太話である。
 まずアマテラスは太陽神であり、真夜中に現れるはずがない。世の中に出ている図像ではアマテラスは常に立像である。寝台に寝そべっている姿など見たことはない。おまけにアマテラスは処女神である。アマテラスの夫は誰か、記紀には何も書かれていない。つまりアマテラスは未婚なのである。
 太陽神であるアマテラス(=天津神)に対し深夜に現れる神とは、即ちアマテラスと対立する国津神のシンボルでなくてはならない。それは本来、かつてアマテラスと対立し出雲の国津神と合体したスサノオの役割だったはずだが、ヤマトに来てオオモノヌシに変化したのだ。
 深夜男(天皇)と未婚女(アマテラス)が寝台を共用するなど、殆ど不倫の世界である。尤も後世平安期では源氏物語のような不倫小説ができたから、ヤマト世界では不倫は当たり前だったかもしれない。つまり大嘗祭で天皇がアマテラスと会合するという説は明治以降、天皇を政治的に利用するために創作された一神教神話である。
 オオモノヌシ神話の根底にあるのは、古代の蛇神信仰である。古代蛇神信仰はユーラシア各地にみられ、新大陸にもみられる。ユーラシア大陸東端の日本がその例外とは考え難い。
*これが結構ややこしい集団で、戦後江上波夫はこれを大陸起源の騎馬民族集団とした。現在では江上説は否定されているが、否定根拠は甚だ乏しい。筆者は江上説を執る。・・・・・・・・(2) (19/11/13)(続く)


 大嘗祭に関する解説本は書店に行けばいくらでもあるのでここでは述べない。筆者自身よく分からない。筆者が興味を持つのは大嘗祭の最期に行われるクライマックスと云える大嘗会という儀式である。これは当日深夜、大嘗祭正殿で天皇一人が行なう儀式で、長らく絶対秘儀とされ、天皇以外の何物も見てはならないとされる。皇后以下皇族、百官は正殿外で待機するのみである。
 とはいうものの、秘儀の中身はなんとなく漏れ出てくるものである。世間に出回っている情報を総合すると概ねこんなものらしい。
1、正殿の奥に長い寝台があり、そこに”ナニモノ”かが横たわっている。
2、天皇はその前にぬかずき、その年の新米で出来た飯と酒を献上する。
3、ナニモノかと天皇は飯と酒を頂き、これにより天皇は神威を得る。
 とされる。
 しかし不思議なことがある。天皇はそもそも生れた時から神(現人神)である。そうなら別に別に改めて神威を得る必要もないはずだ。ここに日本の神の二重性が現れる。筆者のコラムでは何度も出てくるが、日本神話の特徴に天津神と国津神の二重性がある。この二重性は現在でも政治特に保守政治に顕著に表れる。つまり本音と建て前の使い分け。関電高浜事件に見られる、国家権力と地方勢力の二重性である。
 天津神とはアマテラス大神を主祭神とする勢力で、現在では伊勢神宮を中心とする。但し初めから伊勢にいたわけではなく、元はヤマトの石上神社にいたが、国津神のボスであるオオモノヌシに追い出されて、丹後元伊勢(天橋立の対岸)を経て、伊勢に落ち着いたのである。この眷属を天津神という。
 これに対する勢力が国津神である。これは天津神(つまりアマテラスとその眷属)がやってくる前から、列島に住み着いていた先住民の神である。これも一様ではなく、地域時代によって様々なグループがある。
 一つは元々列島に住み着いていた縄文人の神々で、これらの多くは河、山、海などの自然現象を神格化したもの。具体的には立山明神とか富士権現、早池峰明神などで、これらは後に日本神話に取り込まれ、更に仏教と混淆して山岳信仰の対象となった。
 次に興味が引かれるのが金属神である。この神は多分朝鮮南部に起源を持ち、大陸状勢の不安定化に伴って列島に渡来し、主に鉄の採掘精錬技術を伝えた。彼らはまず出雲に植民し、更に北陸から東北まで伝播していったようである。出雲のヤマタ族や各地にみられる”イ”が頭につく部族がこれに該当する。
 もう一つ重要な金属民は水銀族である。奈良県に多くみられる”丹生”という地名は水銀産地のことで、水銀採掘を目的として列島に渡来してきた民族がいる。その神は丹生明神(権現)に当たる。これは重要だから是非覚えておいてください
 そして最後にやってきたのが稲作を列島に伝えた神々。その象徴がアマテラスの子で瑞穂の国に降臨したとされるニギハヤヒ。ところがこの子孫がカンヤマトイワレヒコに抵抗したナガスネヒコ。一体どっちがどうなのか訳が分からなくなるのである。
 このように国津神と云っても地域によって様々な種類がある。これらが全て一致団結しているはずがない。記紀ではこれらの国津神を統合したボスが大和のオオモノヌシとされる。しかし日本列島は細長い。ヤマトに従わない地域も数多くあったわけで、それらが全てオオモノヌシに従ったとは考えにくい。おそらく奈良盆地とその周辺、せいぜいいわゆる五畿内と出雲、その周辺地域だろう。しかし天津神勢力が列島に広がるにつれ、その地域の国津神もオオモノヌシの支配下に落ちていった。
 この国津神に対立するものが天津神である。では天津神(カンヤマトイワレヒコ=神武天皇)は何時頃やってきたのか?筆者はせいぜい4~5世紀頃。まずヤマトに侵攻しヤマトの国津神を支配下に置いたた。この時の大和国津神の代表がオオモノヌシ(=物部氏)。記紀によれば天津神に侵攻に対し抵抗を唱えたのはナガスネヒコのみ。さてどうするかとウロウロしているとき、ヤマト五王の内最も有力だった物部氏が天津神受け入れを表明したため、ヤマトは一気に天津神受容に傾いた。この物部氏の氏神がオオモノヌシだったのである。
 ヤマトに侵攻したばかりの天津神は海賊に毛が生えた程度の弱小勢力だった。思はぬ偶然でヤマトの支配者(=スメラミコト)になってしまった。これを維持するにはやはりヤマト国津神(=オオモノヌシ)の支持・援助が無くてはならない。ここに天津神と国津神の権力の二重性と共存関係が産まれた。この関係を象徴する出来事が天津神のトップである神武天皇と大和大神神社の巫女であるホトタタライスケヨリヒメとの婚姻である。大神神社の祭神はオオモノヌシで日本最古の神社とされる。又イスケヨリヒメは摂津三嶋氏(これも国津神)の王女で、母のヤソダタライスケヒメがオオモノヌシと通じて生まれたとされる。この後ヤマトは周辺諸国に支配権を伸ばしていくが、常に国津神の支持・援助に頼っている。例えばヤマトタケルの関東遠征は東海の国津神である尾張氏の援助が無ければかなわなかったろう。
 では何故天津神はヤマトに侵攻したのか?またオオモノヌシはどうして他の国津神に対し優位にたてたのか?それはヤマト水銀の利権である。水銀は金鉱石と混合して加熱すると金の水銀アマルガムを作る。更に加熱して水銀を飛ばせば後に金が残る。このように水銀は金の精錬に不可欠の物質だった。古代では水銀は金と同価格で取引されたと云われる。当時ヤマトは東アジア有数の水銀産地だったのである。これを求めて大陸から多くのの渡来人がやってきても不思議ではない。オオモノヌシを氏神とする物部氏は水銀採掘・精錬にも長けた技術者集団で、それを背景にヤマトに大きな勢力を張っていたと考えられる。        ・・・・・・・・・(1)(19/10/23)

 いよいよ始まる天皇即位儀式、大嘗祭。果たしてこの祭儀は何を意味するのか?世の中みんな、これを単なるお祭り儀式と思っているようだがとんでもない。これこそ日本人という集団あるいは集合無意識を作り出した密議なのである。以後、この儀式と日本古代史について検討を加える。
(19/10/21)

    京都市南部の井戸の遺跡から見つかった井型の記号が刻まれた土器。井という記号は禍を防ぐまじないだったらしいが、それは初耳。ということは我が横井氏は古代では呪いしだったのか?道理で子孫も技術士という呪いで人をたぶらかすのが好きなのもよく分かる。
 井戸枠には木製と石積みの2種類があって、木製井戸枠は木の桁を井桁に組んで矢板を落とし込みながら掘るもの。これでは井戸の断面は四角になるもう一つは玉石を組んで壁を作り、それで土圧を支えながら掘るもの。この場合は断面は円形になる。さて発掘された井戸はどっちだったのでしょうか?遺跡として残りやすいのは当然後者です。
(19/08/22)
    このほど佐賀県で発見された弥生人の頭蓋骨。これのDNA鑑定から、北西九州人は他の弥生人とは異なるルートでやってきて、その後先住の縄文人と混淆したらしい。
 筆者は以前から北九州人は他の日本人とは異なる起源を持つと考えていた。理由は「砂」の音読み発音である。殆どの日本人はこれを「サ」と発音する。しかし北九州人だけはこれを「シャ」と発音する。砂岩(サガン)が北九州人にかかると「シャガン」になる。そして東アジアでは、韓国・台湾・中国北部はみな「サー」だが、中国江南地方人だけが「シャー」と発音する。
(19/07/23)
   これは高槻野見神社の「茅の輪」。北野天満宮に比べれば随分質素です。「茅の輪」くぐり」祭の元は物部氏にある。物部氏は謎の多い氏族でこれを亡ぼした蘇我氏や蘇我氏を滅ぼした藤原氏(いずれも渡来系)によって、歴史を抹殺された疑いがある。
 しかし物部氏はその後怨霊となって、日本の歴史にしばしば姿を現す。例えば江戸末期から明治にかけて現れた教派神道、昭和になって姿を現した神道右翼などである。但しこれは日本会議や自民保守系の統制右翼とは路線が異なる。
 1945年の敗戦は物部氏の祟りかもしれない。しかしそれにも拘わらず、朝鮮渡来人である長州アベとサンケイ、日本会議はなお天皇及び日本支配を策謀する。それも白人トランプと組んでだ。
(19/07/04)
    これは大阪北野天満宮に飾られた「茅の輪」。最近これの茅を持って帰る参拝客が多く、神社は困っているらしい。これは「茅の輪くぐり」という儀式に使う道具。「茅の輪くぐり」とは物部氏に伝わる儀式で、「ひーふーみーよおー・・・とお」と唱えながら右に三回、左に三回くぐると、その年の息災が得られるというまじないである。元々、死者蘇生術あるいは霊魂招来術とも云われる。結構不気味なのだ。
 ところがこんなに大きくて門に接近して作られれば、くぐろうにもくぐれない。高槻の野見神社でも秋10月には「茅の輪くぐり」をやるが、そこの茅の輪は直径が1m少々。これがむしろ古式で、北野天満宮の茅の輪は後世の人集め用ではないかと思われる。そもそも天神は別名大威徳天王というくらいだから仏教が起源。国津神のドン、オオモノヌシの神を氏神とする物部氏とは縁もゆかりもない。
(19/06/26)

 徳島県若杉山遺跡という弥生時代の遺跡で水銀採掘の跡が見つかり、早速こんな昔から日本人は優れた技術をもっていたなどと、日本ホメ番組のような解説がネットなどでは飛び交っています。百田の様なアホなら泣いて喜ぶだだろう。
 若杉山遺跡とはどんなところかと、産総研のシームレス地質図で調べてみると、どうやら外帯の中の「黒瀬川構造帯と云われる地帯にあるらしい。水銀は硫黄と化合して辰砂と呼ばれる鉱物の中に含まれる。これは一般には火山噴出物や火成岩の貫入面に付着して産出する。
 黒瀬川帯はプレート沈み込み帯に生じた付加コンプレックスで堆積岩を主とし、列島付加後も火成活動の跡は見られない。何故こんなところに辰砂が産出するのか?実はこの中に数は少ないが、銅硫化鉄鉱床がある。これの元はプレートの沸き上がり部に出来る海底熱水鉱床であるこの中に水銀や硫黄が含まれていても不思議ではない。
 それはともかく原日本人である縄文人が水銀採掘技術を持っているはずはなく、水銀を採取していたのは渡来人である弥生人に間違いない。では弥生人とは何者か?話はややこしくなるが、当時の中国大陸の混乱(戦国時代から始皇帝の統一まで)から逃れてきた人達だ。これは一つではなくルートも幾つかあったと考えられる。それがそののちの地方王朝を作った。この中に鉱山民がいたと考えられる。それを思わせる民話・伝説も残っている。
 では弥生人は何のために水銀を採掘していたのだろうか?水銀の用途は大きく、医薬品と金の精錬に分かれる。医薬品としては解熱剤・化膿止め・殺虫剤としての用途がある。もう一つが水銀アマルガム法による金の精錬である。これは金鉱石と水銀を混ぜて炉で加熱し、水銀アマルガムを作る。更に加熱すると水銀は昇華するので炉の底に金が残る(現代では王水・・・濃硫酸と硝酸の混合溶液・・・を使う)。つまり水銀は金の精錬にとって不可欠の物質であり、古代では金と同価格で取引されたという。
 当時の中国では既に黄金文明が栄えていた。水銀はそのための必須物質だった。しかし中国本土には金鉱石や水銀は殆ど産出しないので、周辺地域からの輸入に頼らざるを得なかった。これらはシルクロードを利用してインドやペルシャから得られるが、その一つに日本があった。当時の日本では金の採掘は行われなかった。ということはこの水銀採掘は、中国への輸出を目的として行われた可能性が考えられる。
 なお、記紀伝説によれば神武天皇とその一行は、とにかく大和を目指した。大和は三方を山に取り囲まれ、大陸との交易も不便で、また全体が湿地帯で農業も未発達。征服者にとって、そんなに魅力のある土地ではない。神武一行は大和に行くために生駒ではナガスネピコと戦い、紀ノ川では先住民の抵抗で兄を失い、更に熊野川の急流を遡り、大和に入っても先住民の抵抗にあった。何故ひたすら大和を目指したのか?それは大和水銀を手に入れるために他ならない。
 神武が即位したと云われる橿原を含む宇陀郡は、日本有数・・・・ということは東アジア有数・・・の水銀産地だったのである。おそらく神武族はその情報を、何らかの方法を手に入れたのだろう。そういう情報網を作るのは海賊が一番だ。つまり神武天皇の一族は当時東アジアに生息していた海賊だ、というのが筆者の見解である。
(19/03/03)

 鳥取の弥生遺跡(AD1世紀頃)から発見された人骨の、ミトコンドリアDNA解析により弥生人の大部分は大陸又は半島からの渡来人であることが判明した(11/18毎日新聞)。弥生文化の始まりはBC4世紀頃とされる。弥生人の渡来と弥生文化の成立は、その当時の東アジア世界の動きとの関連で考えるべきである。この時期中国では戦国の騒乱が終末期を迎え、秦の力による諸国併合が始まっていた。当然各国からの難民・亡命者が発生する。彼らが目指したのは一か所ではないはずだ。たまたま誰かが海流に乗って日本列島の何処かに漂着した。筆者はそれが九州北部の「沖ノ島」で、古事記の言うオノコロジマとはこれだろうと考えている。
 沖ノ島に渡った亡命者が次に渡ったのが北九州で、ここでできたのが「チクシ王朝」。先住の縄文人は南に追いやられハヤト族となった。問題はこれから先である。古代日本には他に多数の王朝があった。これらの王朝の成立には、次の二つのケースが考えられる。一つは北九州に植民したチクシ族が日本海沿いに移動し、山陰・北陸に新たに植民地を作った。それがイズモ王朝、コシ王朝で、更に彼らが列島内に移動した。イズモ族が移動してできたのがキビ王朝、そしてヤマト王朝。コシ族は中部・東海地方に移動しオワリ王朝を作った。彼らの祖先は独自のカミとなり、国津神の有力勢力となった。例えばチクシ王朝の神は宗像大社の神、イヅモ族の神は大物主→大国主神、コシ王朝は気比神、オワリ王朝は熱田神という具合である。
 一方これらの王朝(大陸からの植民地)の成立原因となった難民・亡命者の到来は、一回ではなく何派に分かれてやってきたはずだ、という考えもある。それは現在の中東→ヨーロッパ、あるいは中南米→アメリカへの難民の移動を見れば容易に想像できる。現在世界的にみられる移民・難民問題は世界史的に見れば、かつての民族大移動に匹敵する大事件である。ではこのような大事件はどうして起こったのか?大抵の歴史家・学者はこれを政治家・権力者の所為にする。しかし実は全地球的な気候変動にも左右されているのである。問題は時の権力者がこれに気付かず対策を怠ったからである。そのような愚かな権力者の代表が、現代ではアメリカのトランプと中国の習近平である。
(18/11/19)

 フレーザー(「金枝篇」)によれば、古代地中海世界では村からある人間を選び、一年間好き放題なことをさせた後、春の種まきの前に彼を殺し解体し、血や肉を大地に捧げてその年の豊作を祈ったという。選ばれるのは、ある家系であったり、精神的身体的不具者であったり、旅人であったりする。この犠牲者を仮王という。
 ある時、強情な人物が現れ、犠牲になることを拒否し、そのまま居座るどころか、自分の息子を後継者に据えて村を支配するようになった。これが王制の始まりだ、とフレーザーは主張する。
 何故こんな話をするかというと、今日が紀元節だからだ。記紀によれば初代神武天皇(カンヤマトイワレヒコ)の治績は詳しいが、二代から九代までの天皇はおくり名だけで、母が誰とも何の治績も記述されていない。そこでこの時代を欠史八代という。
 ところが十代崇神天皇となると。たちまち様々なエピソードが現れる。元々天理の石上神社にいたアマテラスが色々あって、とうとう伊勢に落ち着いたのもこの天皇の代。しばしば卑弥呼の墓に比定される箸墓古墳の主と云われるモモソ姫と大和の大物主との関係があったのも、この天皇の代。
 つまり崇神天皇から強力で永続的な天皇(大王)が現れたと考えられる。上で挙げたフレーザーの説によれば、崇神が王制の始まりである強情な人物で、その前の八人は仮王であったとすれば、欠史八代は説明できる。そうすれば、神武も怪しいもので、崇神=神武という仮説も成り立つ。これが戦後話題になった江上波夫の北方騎馬民族簒奪王朝説である。
 そう考えれば、紀元節2月11日というのは、何の根拠もないことになる。そういえば、この日は日本最大の右翼団体日本会議にとって極めて重要な日だ。その日に名誉総裁アベ晋三はのんびりオリンピック見物。ということは本人も紀元節神話をあまり信用していないというkとか。
(18/02/11)

 あのアホの張本が、白鵬1047勝について、翌日のスポーツ紙で一面に取り上げたのが一社しかなかったのに腹を立てて、「同じ民族なんだから・・・・」とクレーム。要するにもっと尊敬を払えということだ。で、筆者は相撲にはあんまり関心はないので、白鵬1047勝の歴史的意義をあれこれ言う立場にはないが、張本の云う「同じ民族」なんだから、という言葉に若干引っかかるものがある。
 民族という言葉には広義と狭義がある。広義で云えば、白鵬のモンゴルも張本の朝鮮族も、日本人も同じモンゴロイドで、使う言語もアルタイ語系だ。その意味では張本の意見は正しい。これが広義の民族である。 しかし狭義ではそうはいかない。モンゴルはれっきとした単一民族である。又朝鮮族もツングース系騎馬民族ということははっきりしている。しかしツングースとモンゴルとは一体ではない。ある時に分かれたのだろうが、言語・文化も異なる発展を遂げている。
 一方日本人はもっとややこしい。原日本人として挙げられるのは縄文人だが、縄文人の由来そのものが分からないのである。柳田国男以来、南方由来説が定説とされてきたが、縄文人の形体的特質が明らかになるにつれて、南方=東南アジアか中国南部には、これに比定できる民族が見当たらなくなったのである。その後の弥生系民族は中国南部からの難民又は亡命者が主で、中国の混乱とは無関係だったモンゴル・ツングース系民族が、わざわざ列島にやってくるとも思えない。
 一方古事記では、スサノオが機を織っているアマテラスに向って、馬の皮を投げつけるシーンがある。これなどアマテラス一族が騎馬民族で、天孫はモンゴル高原から天下ったように見える。しかしだ、古事記の冒頭にあるのは、オノコロ島における国生み伝説である。これは明らかに海洋民族の説話だ。騎馬民族を前提とするアマテラスースサノオ天孫降臨伝説とは全く矛盾するのである。それどころか、古事記説話には後世に他所から説話をパクったと考えられる部分がいくつもある。
 つまり日本人というのは、一部ネトウヨが云うような単一民族ではなく、数種の民族が大陸縁辺の列島に辿り着いて、そこで共存を図った結果なのである。だから国籍論など実にくだらないし、同一民族にこだわるのも意味はない。張本の頭には「同じ民族」だからという単一民族説がある。しかし日本の歴史を見ると、他文化・他民族を許容してきている。重要なことは多様性を認めることである。これ以外に日本人が今後生きていく道はないだろう。
(17/07/23)

 このほど「沖ノ島」はじめ8件の宗教遺跡が一括して、世界遺産に登録されました。それが妥当かどうかは別にして、筆者は数年前から「沖ノ島」が古事記で云う「オノコロ島」ではなかったか、と考えています。「オノコロ島」については兵庫県淡路島がそれではないかという説が昔からあったのだが、これは殆ど根拠がない。古事記にアワシマとあったのが似ているというだけである。
 戦後沖ノ島で発掘調査が行われ、大量の弥生前期青銅器と土器が発見されました。当時の日本では銅は採掘されていないから、これらは外国特に中国由来のものは明らかです。では当時の中国を含む東アジア情勢はどうだったでしょうか?
 中国は戦国乱世の真っただ中。特に日本で弥生時代が始まったBC2300年頃は、秦が周辺諸国を亡ぼし、領土を拡大していった。当然中国内部からは大量の難民・亡命者が発生したはずです。その内、江南地方の亡命者が沖ノ島に辿り着き、ロビンソンクルーソー的生活を送った。その後生活も安定し、人口も増えたので対岸の北九州に植民し、一地域を支配するようになった。これが筑紫王朝です。但し南九州には先住の隼人族がいたり、東の瀬戸内方面には別ルートからやってきた出雲族の片割がいたりしてそれ以上、領土を拡大できなかった。
 何故筑紫族が中国江南地方難民の子孫かと云うと、九州北部出身者に限って、「砂」という言葉を「シャ」と発音するのである。例えば「砂岩」は、我々普のヤマト人なら「サガン」と発音する。しかし北九州人に懸ると「シャガン」になってしまう。「中細砂(チュウサイサ」はチュウシャイシャになってしまうのである。
 さて過日、あるテレビ番組を見ていると、「砂」を国別でどう発音するかというのをやっていた。ここでびっくりしたのは、確か台湾人は「サー」と発音していたが、中国江南人は顕かに「シャー」と発音していたのである。これで筆者の云う、筑紫王朝中国江南地方起源が証明された。
(17/07/13)

  縄文末から弥生時代初期・・・つまり中国戦国動乱期・・・に、大陸から渡ってきた難民・亡命者は北九州だけでしょうか?実は他にも何か所もあります。その中で特に重要なのは「出雲」ですが、他にも「コシの国」とか北陸地方が挙げられます。
 これらの地域に共通するのは「鉄」です。青銅と鉄の製造技術、弥生初期に、ほぼ同時に日本に伝わったと云われます。スサノオが出雲にやってきたのは、筆者は概ね2200~2300年ぐらい前と考えています。そのときには、既に出雲に「ヤマタ族」という鉄器集団が来ていました。スサノオは少し遅れてやって来たのです。
 筆者は鉄や金属精錬に関連する言葉として「イ」に注目しています。「イ」が付く地名は、西日本では「イズモ」「イヒカワ」、北陸では「イヅナ」「イイデ」などがあります。新潟の弥彦神社のヤはイヤアの転じたものと考えられます。いずれも鉄の採掘・精錬に関係しています。この製鉄民族が近畿東海地方に南下して、我々が知っている弥生文化を作ったというのが、筆者の考え方です。
 古事記という書物の内特に神代紀は、各地の伝説を寄せ集めたもので、中身は矛盾だらけです。しかし重要なこのは出雲神話が全体の2/3位を占めることです。これに比べ筑紫や尾張が登場することは殆どありません。筑紫王朝はヤマトと異なる、独自の発展を遂げたのでしょう。
(17/07/15)