豊浜トンネル崩壊事故の真実・・・・・真犯人は誰だ!

横井技術士事務所
技術士(応用理学) 横井和夫


 今年(平成28年)は豊浜トンネル崩壊事故20周年と言うことで、地元では慰霊祭などが開かれました。豊浜トンネル崩壊事故とはなんだったのか?事故は未然に防げなかったのか?というのが課題として残ります。下の図は豊浜トンネルの現在の様子(Google Earth)です。

 これだけでは何がなにやら判らないと思うので、筆者による解説図が下の図です。この道路は「雷電国道」と称され、おそらく昭和30年代に一旦整備されたが、その後50年代に入って、旧「豊浜トンネル」を含む道路改良が行われたものと推察される。

 事故発生当初、筆者は独立したばっかりで仕事が無かったので、毎日テレビのワイドショーで崩壊復旧作業を見ていた。丁度テレビカメラが旧トンネル坑口を正面に捉えるアングルだったので実態がよく判ったのである。
1)そもそも普通なら、こんなところに坑口は作らない。まず坑口の正面及び側面は直高数10mの急崖で、地山岩盤は中新世の玄武岩質ハイアロクラスタイト。地山の岩盤にも浮石状態が見て取れる。これは北海道という寒冷地帯特有現象。つまり夏冬の寒暖差が大きいため、凍結融解が繰り返され、これが地山に不均等応力を加える。もう一つは海からの波である。日本海からの波が岸に押し寄せると、低周波振動を発生する。この振動はエネルギーがなかなか減衰せず、遠くまで到達する。これが地山岩盤の緩み(強度低下)を促進する。だから坑口はもっと地山が安定したところに設定すべきである。
2)当初設計を担当した技術者も、当然坑口周辺の地山の不安定さに気づいた。その結果が崖下の200mという明り巻きである。筆者も20mの明り巻きは経験したことはあるが、200mと言うのは聞いたことがない。つまり関係者はみんな、この坑口の不安定さを認識していたのである。それにも拘わらず、何故危険な方向にはしってしまったのか?
3)テレビ画面を見ながら、俺だったらどうするかなあ、と考えてみた。当たり前だが、1)で述べたように急崖の正面突破案は論外である(飽くまで常識的技術者のまともな判断)。r当然坑口を古平側に引き込み、もっと地山が安定したところに坑口を持っていくか、或いは完全別線案である。しかしこの程度なら、まともな道路屋なら誰でも気づくはずだ。
4)何故わざわざ正面突破案としたのか?筆者(まともな技術者)の案では当然トンネル延長は長くなるので、工費が高くつく。それを本省や大蔵が押さえ込んだのだろうか?まさか!トンネルに関しては道路も鉄道も現場の意見が優先される。現場がノーと云えばノーなのである。おそらく本省の人間も予算査定の段階で現地を視察し、こりゃ駄目だと思ったはずである。つまり、建設省が駄目だといえば大蔵だって文句は云えない。しかし彼らも抵抗できない何らかの力が働いたのである。
5)そういうことを考えつつ三日目の昼、「なるほどそういうことか」ということに気づいた。それは崩壊地点の手前に民宿が2、3軒見えた。これが真犯人なのである。つまりトンネル坑口を現状より古平寄りにする常識案にすれば、観光客は民宿を素通りしてしまう。つまり民宿業者にとっては、坑口を何処に持っていくかどうかは死活問題なのである。だから彼らは常識案に対し断固反対する。議員を使ってまでもだ。これには道も対抗できず、曖昧な形での決着を図る。それが200mという非常識な明り巻き*になるのである。この結果、旧雷電国道を優先した案に決定され、20年前の事故をおこしたのである。
6)本地点のような不安定斜面に対し、明り巻きなどという防御工法で対応しようと言うのは、土木屋としては「逃げ」である。本来ならアンカーによる補強で対処すべきであろう

この事故には次の二つの問題がある。
1)極一部の既得権益にしがみつく地域エゴ(地権者、地元議員)
2)それを説得できない行政の優柔不断
3)現代技術に対する無知

 この三つは今もなくなっていない。と言うことは、豊浜トンネル事故は今後も繰り返されるということだ。
(16/02/08)