裁判員制度は定着するか?


 昨日戦後始めての裁判員裁判が開かれました。筆者はもともとこの制度に胡散臭いものを感じていました。訴訟には刑事・民事・行政の三種類があります。ここで今回の裁判員制の対象になったのは、刑事訴訟だけです。そもそも、この制度は裁判に民意を反映させることが目的だったはずだ。それなら、民事・行政訴訟の方がより必要ではないでしょうか?。それにも係わらず、何故刑事だけに限定したのか?
 アメリカでは刑事だけでなく、民事でも陪審制で行われる。その結果、事件によっては、とんでもない数億ドル単位の懲罰的罰金が科せられることがある。多いのはセクハラ、人種差別、商品の不具合による事故である。例えば、飼い猫をシャンプーして乾かす為に電子レンジに入れたところ、猫が焼け死んでしまった。商品説明書に「猫をを乾かしてはいけない」と書いてなかったのはメーカーのミスである、という訴えが認められ数億ドルの罰金がメーカーに科せられた。日本メーカーでも、制度を検討している期間中には、パロマや三菱自動車ハブ事故とか、メーカーの敗訴になるおそれがある事件が頻発していた。裁判員制度を民事に導入すると、こんな判決が横行するおそれがある。これではたまらんと、経団連始め業界団体が、民事訴訟を裁判員制から外すよう法務省に圧力をかけたのではあるまいか?
 行政訴訟では、例えば国交省は計画中の公共事業の中に、事業差し止め請求訴訟を起こされているものがある。又厚労省や環境省も、薬害訴訟や公害訴訟を抱えている。これらに裁判員制を導入すると、たちまち国側敗訴になるのは目に見えている。そこで各省庁が一斉に法務省に圧力をかけたのではあるまいか?
 一方刑事被告人は殆どのケースで背景に組織を持っていない。持っているとすれば、暴力団と自衛隊・米軍ぐらいなものだ。つまり、一番被告が弱いのは刑事訴訟である。これなら問題ない、と刑事訴訟だけに限定したのだろう。なお、暴力団関係事犯はやっぱり裁判員制から外された。今後米軍犯罪に本制度が適用されるかどうかが注目される。
(09/08.04)


 1年後には日本にも裁判員制度が発足する。さてこの制度は日本に定着するでしょうか、それとも何年後かには消えてしまうでしょうか?何となく後者の気がします。まず裁判員制度とは欧米で行われている陪審制の日本番です。では陪審制とは何者でしょうか?これは、実はキリスト教以前の古ゲルマン共同体社会で慣習的行われてきた制度に過ぎません。中世の民族大移動で、ゲルマン民族がヨーロッパ中に溢れ、その結果ゲルマン社会の慣習がヨーロッパとイギリスに広まった。更に三十年戦争後の宗教的混乱の中で、主にゲルマン系農民や市民が宗教の自由を求めて新大陸に渡った。この結果アメリカ市民社会にもヨーロッパ中世の陪審制が広まったのである。
 では非ゲルマン社会であるギリシアやローマ、さらにはエジプトやアシアではどういう裁判が行われていたか?これらの国々は本質的に神権国家であり、従って裁判は神の意志によるものだった。裁判官は国王や代官だったが、神が陪審員だったわけです。どういう審理をしたかといえば、ずばり占いです。ユダヤ教社会ではモーゼの律法やイスラム法典が、ペルシャではハムラビ法典が、インドではマヌ法典が用いられたが、これらはいずれも神から与えられたものだから、神権裁判であったことには間違いない。中国では殷周時代は他のアジア地域と同様、占いに基づく神権裁判だったと考えられるが、戦国時代法家が現れ、秦の始皇帝によって法律が採用されると以後それが主流となり、王権裁判が行われるようになった。これは中国人の現実主義的性格もあるが、帝王にとって王権に基づく法律を利用した方が都合が良かったからに他ならない。なお、中国・ロシア・フランス・ナチスドイツでは革命後人民裁判というものが行われている。これは人民代表が陪審員を努めるので一見陪審制裁判に見えるが、陪審員そのものが既にマインドコントロールを受けているから、伝統的な陪審制とは似て非なるものである。
 日本でも、古代では他のアジア諸国と同様、”うけい”と呼ぶ占いによる裁判が行われていたらしい。”うけい”とは何か?よく分からないが、被告が熱湯に手を浸したとき、火傷しなければ無罪、すれば有罪とか、そんなモノだったらしい。その後中国から法律がもたらされるとたちまち中国化し、律令を用いた王権裁判がかつての神権裁判に取って代わることになって、現代に至っている。幸いにして、人民裁判が行われた例はない。では占い(神託)と陪審制のどちらがまともかということだが、筆者の見解ではどちらも大して代わりはない。陪審制もデルフォイ式神託のようなものなのだから。
 
 と言うわけで、最初に述べたように陪審制とはヨーロッパの一地域で行われた極めてローカルな習慣にすぎず、決して一般的なものではないということです。果たして伝統も慣習もない制度に日本人がどれだけ馴染めるか?様々な混乱が生じるでしょう。それをマスコミが煽れば国も自信をなくしてしまうかもしれない。
 日本でもかつて陪審制が取られたことがあった。それが20年ぐらいで廃止された。何故でしょう。三権分立という言葉があります。 これだけ見ると何か司法が独立しており、自由な審理が出来ると思うでしょう。そうでしょうか?あくまで分立であって独立ではない。この三権とは実は体制を支える権力ということです。この体制とは、旧憲法下では天皇制であり、現憲法下では民主主義です。つまり、三権は独立した権力ではなく、あくまで現体制に従属していることを忘れてはなりません。もし裁判員がその点を忘れて自分勝手な審決を出せば、それは体制側にとってはなはだ具合が悪い。かつて存在した陪審制が廃止された背景にはそのような事情があったのではないか、と思われるのです。最近頻発するのは冤罪疑惑。裁判員制が持ち込まれると、逆転判決が続出する可能性もある。そうすると面子を失うのは検察庁。検察側から裁判員制度を止めようなんて声が出てくるかもしれない。
 裁判員制度について最高裁のホームページを見てみると、出てくるのは、裁判員の義務ばかり。僅かな日当でこんなにこき使われたんじゃ、今の人材派遣業より酷い。まず対象とする犯罪の範囲がものすごく広い。その中には麻薬取り締まり法や銃刀法のような暴力事犯も含まれる。もし被告が暴力団員やカルトだったりして、裁判員が被告やその関係者から脅迫や報復を受けたらどうするのか?その辺の解説が何一つない。裁判官や検察官が襲われて殺されても、彼らは公務員だから国から手厚い保障が得られる。しかし一般市民である裁判員にはせいぜい涙金程度の弔慰金。それで家族は生活が崩壊してしまうのである。もしこのような事件が生じたら、マスコミが騒ぎ立てて裁判員制度は元の木阿弥。役人は自分が作った構想の実現だけを目的とするから、マイナス面は眼をつぶる。従って、仏作って魂入れずとなるのである。そもそもが、日弁連が反対しているにも関わらず、法務省が独走して無理矢理制度を作ってしまった感がある。要するに議論が足りないのである。役人の独走ほど後になって後悔するものはない。従って、これも高齢者医療保険制度と同じく、いずれ消え去る運命にあるだろう。

 例のNHK従軍慰安婦放送問題での、損害賠償訴訟での最高裁判決で原告側敗訴。判決を出したのは、例の横尾和子という裁判官。この裁判官は以前より、行政訴訟では政府・与党寄り、刑事訴訟では検事寄り判決を出すので有名。この間も何かの刑事訴訟で被告側証拠を全く無視し、検事側主張を全面的に受け入れた判決を出した。何故、こういう偏向判決を出すのか?家庭的に問題を抱えているのではないかとも思われる。家庭内暴力とか。ストーカーでクビになった裁判官が出たが、この裁判官もそういう個人的問題を抱えていたのかもしれない。裁判官の任用も家庭状況とか、職場環境とかを検討する必要があるだろう。

 もう一つ裁判員制度の矛盾というか馬鹿馬鹿しさを指摘しておきたい。裁判員制度下では裁判員は、一切のマスコミ報道とか第三者にに左右されないという”鉄の意志”を要求される。しかし、プロの裁判官、或いは全ての裁判官を統括する筈の最高裁の姿勢はどうなのか?ここ10年ぐらいの間に顕著なのは、判決の厳罰化である。これは世間の厳罰化要求におもねった結果に過ぎない。更に噴飯なのは、例の光市親子殺害事件で、広島高裁が事件当時、被告が未成年であることを理由に無期懲役を言い渡したのに対し、上告審で最高裁は「世論が納得しない」量刑は不当として高裁に差し戻し、結果として死刑が確定した。なんということはない。最高裁自身が世論(=マスコミ報道)に影響されているのである。こんなことで裁判の独立が守れるとでも思っているのだろうか?