東条一族へのいじめ


 ヨーロッパでは戦争に負けた将軍はしばしば軍法会議にかけられる。ロシアでは日露戦争後、クロパトキンとステッセルが軍法会議にかけられ、ステッセルは銃殺刑が宣告されたが、恩赦で助かった。日本では戦争に負けた張本人を神様にしようとしている。今必要なのは敗戦責任者を国民の手で軍法会議にかけることである。

 先週(07/03)のサンプロを見ていると、東条英機の孫というのが出てきて、あれこれ祖父さんのことや家族の思いで話を語ってくれた。なんでこんなアナクロを今頃つれてくるのか、テレ朝の意図もよく分からないが、話しを聞いて面白かったのが、東条英機というのはよっぽど嫌われていたんだなあ、ということ。
 まず小さい頃からいじめにあっていた。家を借りに行っても、東条一族というだけで家を貸してくれない、タクシーに乗ろうとしても乗車拒否、空襲警報が出て、防空壕に入ろうとしても入れてくれない。こういういじめが終戦の日まで続いた。なんと、終戦前からいじめにあっていたのである。終戦で良くなったかというと逆で、兄は学校に行ってもクラスに編入出来ない。米を買おうとしても、東条一族ということが分かると米を売ってくれない。等々。この話しを聞いても、私は東条一族に同情する気にはなれなかった。まあ、身から出た錆ということか。いじめる側にも言い分がある。防空壕に先に潜り込んでいる人にとっては、「俺たちがこんな苦労をするのも、てめえの親父や亭主の所為だ」ということになるだろう。家族を戦死させたり空襲で失った人にとってはなおさらだ。
 ではこんないじめはどこから始まったのか?昭和19年8月サイパン失陥を受けて、東条内閣は総辞職し、東条大将自身も兼任していた三職(首相、陸相、参謀総長)を辞任した。しかし、予備役であっても陸軍大将であり、内閣顧問である。それなりの尊敬、処遇は受けられる。新内閣は概ね反東条派で固められたが、軍上層部や陸軍省・関東軍・憲兵隊にはなお東条派というか強硬派が残っていたので、新内閣も戦争継続を打ち出さざるを得なかった。そうしなければ旧東条派によるクーデターが発生するのである。従って、東条一族へのいじめは政府や軍の指示によるものではあり得ない。一般市民の自発的いじめである。
 なお、孫婦人は東条の遺品として、当時の新聞記事の一部を見せた。これは当時の朝日・毎日による、東条首相が戦争中に東京を視察した時の記事で、「・・・慈愛あふるるまなざし・・・」などと東条に媚びへつらう言葉のオンパレードである。この孫は今だにこれが本当の国民意識と錯覚しているようだ。老人性痴呆の始まりである。当時、政府批判の記事など書ける訳がない。どの新聞社も紙が欲しくてこのようなへつらい記事を書いていたのである。東条は憲兵を掌握していたから、下の人間ほど東条にへつらうのである。
 何故、いじめにあったか?やっぱり嫌われていたのだ。何故嫌われたのか?やることなすことが細かくて、うっとおしくて、庶民的には我慢がならなかったのだろう。開戦時、東条氏は首相兼陸相。何事にも細かくて規律に反することは一切許さない。婦人の勝子は国防婦人会会長。田中隆吉手記によれば、陸軍人事まで勝子夫人が口を出していたと云われる。夫婦で戦争を指導していたのだ。この婦人会というのが、割烹着を着て市中を巡回し、パーマを当てていたり、長スカートの女性を見ると、衆目の前で髪の毛を切ったり、スカートを切ったりしたいじめ団体である。これも主人が権力のトップにいたからみんな黙っていただけで、その分恨みが溜まる。だから権力をなくせば手のひらを返すようにいじめに回るのである。夫婦そろって嫌われ者なんだから、その孫子も嫌われ者と思ってあきらめよ。ひょっとすると差別というのはこの当たりから始まったのかもしれませんな*。
 しかし、なんと云っても食い物の恨みが一番大きい。戦争も後半に入ると食糧は配給制になり、それもろくなものはない。おまけに連日連夜の空襲で住む所も寝る所もなくなり、命まで危なくなる。誰がこんなことを始めたのじゃあ!ということになる。人間、頭に暮らすのじゃなくて、胃袋で暮らすのだよ、ということが東条大将には理解出来なかったのだろう。その結果が家族へのいじめだったのだ。
 東条予備役大将は戦後、今度の大戦においては、その敗戦の責任に於いて七度生まれ変わっても罪は拭えないと述懐したそうだ。当然で、日本人の立場としても、東条だけは絶対に許してはならない。今回現れたのは孫だからまだ三代二度目にすぎない。先祖の罪を考えれば、今頃大きな顔をして表に出てくるべきではない。(07/05)
*なお、差別と言えば筆者はここ1、2年、江戸の下層民(つまり被差別社会)の構造を勉強していたのだが、そこから判ったことの一つに矢野弾左右衛門というのは江戸市民から相当嫌われていたらしい点がある。理由は沢山あるのだが、例を挙げれば、権力におもねる、権力を笠に着て利権を支配する、一般民に対しても威張り散らす、高利で金を貸す、等々(歌舞伎「暫く」の悪役「髭の意久」は4代目弾左右衛門「髭の集久」がモデルと云われる。この当時、弾左右衛門と歌舞伎社会は興業支配権を巡って訴訟に入り、結局は歌舞伎側の勝利に終わった)。だから明治維新で矢野が没落しても誰からも同情されなかったのかもしれない。東条が何故嫌われたか?それは弾左右衛門が嫌われたのと同根の意味がある。


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