江戸時代に増税は行われたか?(11/16毎日新聞朝刊経済欄コラムについて)
05/11/16経済欄に「邦」というペンネームのコラムがあり、それを読んだところ、氏の主張は到底理解できないので、下記の批判論文を毎日新聞に送り、「邦」氏の反論を待ったところ、何時まで経っても、よこしてこないので、筆者の主張を公開します。もし、読者で反論があれば、いつでも投稿して下さい。


 表記コラムで「邦」氏が、江戸時代の財政再建策を、作家藤沢周平の作品を例にして、(1)減税・借金策、(2)増税策に分け、(1)減税・借金策は一時的な糊塗で、藩財政の悪化を招き、山野は荒廃し、豪商は肥大化し、格差は拡大して農民一揆・逃散を招く。一方、(2)増税策は、当初反発を招くが、公平で強硬派の努力で、藩財政建て直しを導く。公平で強硬な人物とは誰か?判るでしょうね、で結んでいる。正直云って筆者は判らないので、かつてこういう人物がいたなら、何時の時代の、どの藩の、何という名前で、その後の彼の運命を、具体的に教えていただければ幸いである。結論を云えば、これは只のタワゴトである。根拠資料は冒頭に挙げた、藤沢周平作品かもしれない。しかし、小説は所詮小説である。人を説得する根拠にはならない。
 そもそも江戸時代の税金は、農民、それも本百姓と云われる、土地持ち農民のみが負担していた。小作人や水呑み百姓は関係なかったのである。
(1) 年貢は領主の任意で変更出来るか?
 江戸時代の経済体制は、農本主義・米本位制である。年貢は、米作土地面積と、納税負担者の土地家屋建前から算定される。これの算定基礎は、検地により確定されるのだが、江戸時代、全国統一検地は、元禄総検地が最後で、後は行われていない(「貧農史観を見直す」佐藤恒夫、大石慎三郎、1995、講談社現代新書)。以後、大名領・天領で部分的に行われたが、その都度、一揆・強訴が起こって、成功した試しがない。つまり、年貢高は江戸時代を通じて、変わらなかったのである。年貢高は、即ちその藩の名目石高に直結する。大名の任意で石高が変わることは、幕藩体制の基礎を揺るがすものだから、幕府が認めるわけがない。第一、増税すると、藩の名目石高が増えるので、藩の公的負担が増え、良いことは少しもない。
 「邦」氏が云う様に、硬骨武士が現れて、領民に増税を強要したところで、本百姓から、藩祖や権現様のお墨付きを示されたら、グーの音も出ない。本百姓というのは知識階層であり、下手な武士より学識がある。それでも強硬すれば、確実に一揆になる。その場合、幕府が黙っていない。藩政不行き届きにつき、藩も処罰される。増税を言い出した家臣・家老は切腹、藩主は良くて隠居。後は老中から後見人が差し出されて、藩は幕府管理になる。下手すれば、改易だ。だから、こういうことはあり得ない。
(2) 借金で山野は荒廃したか?
これは根拠の無い妄想である。まず順序が違う。借金をしたから山野が荒廃するのではない。放っておけば、山野が荒廃し、土地収穫高が減少する。それを防ぐために、借金して治山治水事業を行ったのである。その結果は、土地収穫高の増大として、藩主・農民に返ってくる。更に、公共事業に失業者を吸収出来るから、農村の治安は良くなり、地域経済は活性化する。むしろ、現コイズミ政権の行っている、公共事業の削減、郵政民営化の方が遙かに危険である。これらの政策は、確実に地方の過疎化を招き、都市と地方の格差を広げる。それが山野の荒廃を招き、それは都市への二次災害として襲いかかってくる。更に治安が劣化し、様々な社会リスクの発生が予測される。将来の社会的コストは、現在行われているコスト削減効果を遙かに上回るものになるだろう。昨年、中越地震で被害を受けた新潟県南部地方は、もともと全国有数の地すべり地帯で、これまで莫大な地すべり対策費用がかけられていた。それでもあの状態である。対策工事が行われていなければ、被害はあんなものでは済まなかっただろうし、今後対策事業を抑制していけば、全体として不安定化が進行し、将来下流域に甚大な被害を及ぼすだろう。
(3) 大名が借金して農民は貧乏になったか?経済格差が広がったか?
これも根拠の無い幻想である。幾ら大名が借金を重ねても、年貢を上げられないのだから、農民が貧窮化するわけがない。第一、米の品種改良や土地改良によって、反当たり収穫量は、江戸時代を通じて2〜3倍になっている。つまり、農民階層が富裕化する。貧乏になったのは下級武士(今で云う下級公務員)である。いわば社会の寄生虫といってよいような連中。かなり悲惨な状況に置かれたらしい。そのため、彼等が後の維新革命の原動力になった。しかし、そういう彼等を経済的に支援したのが、富裕化した農民階層だったのだ。これは大名が借金をしてくれたおかげ、とも云える。富裕化した農民に資本が蓄積され、それが維新の原資となり、外国に借金しなくてよかったから、日本が欧米の植民地にならなくて済んだのである。その仕組みぐらいは判るでしょう。
江戸時代後半に広がった流行に、「おかげ参り」というものがある。これは伊勢参りにかこつけた国内旅行(物見遊山)で、全国の農民・庶民がこれに参加した。つまり、江戸時代後半には、庶民の可処分所得は、相当レベルまで向上していたのである。更に、幕末には農民が、武士身分を金で買うことがざらに行われていた。彼等の多くは武士身分になった上で、国政に参加したが、その費用は殆ど自前である。筆者の育ったのは兵庫県伊丹市で、実家の側に、旧近衛家の代官屋敷というのがあって、小さい頃はそれが伊丹で一番大きい建物だと思っていた。ところが、成長して、周辺の農村地域に行って見ると、代官屋敷など物の数ではない、立派な百姓屋が軒を並べているのである。一体全体、何処で経済格差が広がったと云えるのでしょうか?
(4)何故、大名は借金をしなければならなかったか?
大名が借金する理由の内、最大のものは、参勤交代である。また、江戸・国元という二重生活・二重行政も大きな負担であり(不必要に多い家臣団を、抱えなくてはならない)、更に奥向きの奢侈が負担に輪をかける。11代将軍家斉は50数人の子供がいたが、女子はどこかの大名の嫁に押しつける。将軍の娘であれば、大名も断れない。幕府からは、いくらかの化粧料が支払われる。これも数が多くなると、幕府財政にとっても莫迦にならない。しかも、今と違って、身一つで嫁にくるわけではない。お付きの女中が、何十人と一緒にやってきて、それらが江戸城大奥と同じ贅沢をするから、化粧料を少々貰ったところで、大名家としてもやっていける分けがない。要するに無制限の歳出(もっと露骨に云うと、セレブ女と、それをちやほやする馬鹿殿の無駄使い・・・現代の何処かの国に似ていますねえ)が、自分のクビを締めていたのである。
(4) 大名は借金を返したか?
これは甚だ疑問である。三井家家訓では「大名貸しは返ってこないものと心得よ」という一文があるらしい。相当の借金踏み倒しがあったのではなかろうか?ただ、踏み倒しが重なると、商人が金を貸さなくなるので、公儀御用があると困るから、そこそこは返しただろう。
(5)どういう財政再建を行ったか?
江戸時代の財政再建策に、増税というのは聞いたことがない。よく行われたものは次のようなものだ。
@ 歳出削減
 〇大奥の冗費削減。
  不要女中のリストラ。嫁のクビは切れないから、要するに飼い殺しにする。
 〇参勤交代の経費削減。
  供回りの削減。陸路から海路への変更(本陣宿泊費が節約出来る)。
 ○ 給与削減
  あらゆる方法を使って、藩士への給与を削減する。なにか因縁を付けてリストラするのは当たり前。

          他様々
A新田開発
 治山・治水事業(公共事業)により、新田を開発し、米の収穫を増大させる。事業に失業者を吸収できるから、治安対策にも都合がよい。和歌山県有田川の中流に、両脇が絶壁になった急流箇所がある。これは自然渓流ではなく、徳川吉宗が紀州藩主だった頃に行った、河川改修の結果である。これにより、有田川流域では洪水が無くなり、紀州藩の財政再建に寄与した。吉宗はこの功績により、八代将軍の座を射止めた。これの原資は京・大坂の商人からの借金。
B特産品生産の振興・奨励
 江戸時代も後半になると、米による直接納税よりは、現金による間接納税が主流になる。領主も年貢の検査などの手間が省けるのと、米の出来不出来に拘わらず、税収が確保出来るので、これの方が都合よい。農村には、米の作付けに関係のない、非課税の土地が沢山ある。そこへ換金作物の栽培が始まった。例えば、上州・信州の繭、山形の紅花、播磨の綿花、阿波の藍、紀州の杉・蜜柑などである。これにより現金収入を得て、納税を済ませ、米を米相場にかければもっと収入が増える。それに課税すれば藩収入はもっと増える。と云うわけで、こういう特産品の生産を幕府も大名も奨励したのである。なお、米以外の生産物は原則非課税だから、これにより藩収入が増加しても名目石高は変わらない。藩も有り難いのである。
C 減税
特産品の流通には冥加金とか運上金(業界組合課金)という、一種の関税が賦課されることがある。これも藩収入になるが、行き過ぎるとマイナス面もある。ある時、姫路藩が姫路産皮革製品に対する運上金を撤廃した。すると大阪で皮革相場が下落し、大阪の皮革製造業者が困って、姫路藩と揉めたという事件があった。これなどは、皮革製造業への課税を減らし、姫路製品の売り上げ増大を狙い、更に出てきた利益を皮革製造の合理化や、他産業への投資を目論んだためだろう。
D 密輸
 財政赤字補填のための、簿外収益事業としての藩営密輸である。薩摩藩が有名だが、他に出雲藩や加賀藩も疑わしい。但し、これは開国によって意味がなくなった。
 以上を纏めると
(1)藩が財政困難に陥った理由は、税収構造が変わらないにも拘わらず、歳出を無制限に増やした。
(2)財政再建のポイントは@に歳出削減であり、Aに新たな税収増の工夫である。
(3)増税などという安易な方法を採る大名は、少なくとも江戸時代にはいなかった。真面目な大名は、上記のような方法を駆使して財政再建に努め、多くは成功した。少なくとも天保飢饉以来の危機を、幕末までには乗り切ったのである。しかし、一番駄目だったのが徳川幕府だった。膨大な家臣団、大奥の奢侈をそのままにしたために、ついに政権を追われたのである。
 何度も云っておくが、江戸時代を通じて、幕府も大名も増税は行っていない。その結果、資本が民間に蓄積され、それが明治維新後の政府資金に転換し、近代化過程で外国から借金をしなくて済んだのである。なお、明治新政府は幕府が作った膨大な借金を、増税なしでチャラにしてしまっている。その仕組みぐらいは理解しておいて下さいよ。

 今や「邦」氏の様に、谷垣無能財務大臣のお先棒を担ぐ増税主義者が、様々な形で増税論を述べている。このような連中(政治家、官僚、経済学者)は、能力としては、200年前の江戸時代の大名にも劣るとしか云いようがない。
 「邦」氏とは、現役官僚あるいはそのOBではないか?省益のため、財務省プロパガンダを張っているだけではないか?

 日本のマスコミとか、評論家は口では偉そうなことを言うが、自分にとって都合の悪いことには、途端に口を閉ざす。こういうことを、新聞に投書しても、何も云ってこない。自分の無知がよっぽど恥ずかしいので、反論も出来ないのだろう。



                      
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