不純地質学の奨め     技術士  横井和夫

1、始めに
 このあいだ、応用地質学会関西支部役員会の流れの中で、幹部役員アホ2名が、世の中には純粋地質学と不純地質学というものがあって、不純地質学の代表者が、かく言う横井和夫であると云う。酒の場であるからその程度は良いのではないか、という間抜けもいるであろう。しかし、不純地質学と名指された本人にとってはたまったものではない。不純地質学の根拠を述べよ、具体的事例を示せ、といいたいのである。時代は代わっている。うっかりしたことを云うと即セクハラで訴えられる時代である。頭に来てこの二人を如何に糾弾してやろうかと思っていたが、数日経つとアホ相手にまともに喧嘩する気が無くなってしまい、むしろ不純地質学を逆手に採ってやろうと思うようになった。とはいえ、このアホ二人を許す気は全く無い。

2 、純粋地質学と不純地質学の相違
 おそらく世間では不純地質学というものを、不純という言葉がついているだけで、純粋よりは怪しげなものだ、ろくなことをやっていないと見下す傾向があるだろう。又、正当に対する異端として恐れたり、遠ざけるかもしれない。しかし、世の中で実際の仕事をやっている人達は、純粋だけでは飯は食っていけない。就中、応用地質学の第一線をやっている人達は、実は不純地質学を実行しているのである。従って、不純地質学とは何か、その持つ意味は何かを考えることは重要な意味を持つ。純粋地質学と不純地質学との違いは、…それを言い放ったアホ二人は判らないだろうが…実はかなり難しい哲学的命題を持つ (グノーシス思想への理解がないと少し、分かり難いかもしれない)。ヘーゲル・カントとは云わないが、毛沢東に近いだろう。疎外者の論理だからである。下図は純粋地質学と不純地質学との違いを表したものである。

 この画を見ただけでは、純粋地質学も不純地質学も大差はないじゃないかと思う人もいるかもしれないが、そういう人間をアホと言う。

 以下、純粋地質学と不純地質学の違いを論述する。

1) 純粋地質学     
( 利点)
 担当者に一定の訓練を施し、実験・分析の方法・機器性能を予め定めておけば、必ず同じ結果が得られる筈だ、というのがこの方法の唯一の利点である。基本値さえ決めておけば、後はパラメーターを変化させるだけであらゆる問題に対応出来る、言い換えれば一定の訓練さえ受けておれば誰でも出来る、というのがこの方法の売りである (デモクラシー原理)。例えば安定解析に於ける有効応力法のように。しかし、本当だろうか。我々現場の技術者はこの方法に強い疑いを持っている。

( 欠点)
 この方法は、関係者全員の技量が一定のレベルに達していることを前提としている。しかし、そういうことが保障できるだろううか。例えば 5人の学生に一つの露頭を観察させ、それぞれに所見を書かせたとする。全員が同じ答えを出すことは先ず期待出来ない(数世代前の東大地質は別)。それどころか今の時代、5人全員がレポートを提出することこそあてに出来ない。つまり、この方法は、最初の段階で実現可能かどうか判らない、あやふやな前提に立っているのである。仮に最初の段階をクリアーしたところで、元々が目的を明確にしていないから、やっていることに無駄や不足が発生することは避けられない。従って、次段階では経路が無数に分散する可能性が高くなる。その結果、データの統合は何とか出来ても、結果は当初の目的と大きく外れてしまうことがしばしば発生するのである。よくあることに、「調査の結果はよく分かりました。ところでこれを設計でどう生かせば良いんですか」という質問がある。この問いに対し純粋地質学者は殆ど答えを出せない。これに対抗するため、理論と実際とを適合させるモデルを構築する、ということになる。しかし、このためには原理的に無限の試行錯誤を繰り返さなければならない。従って、基本的に高コスト構造を持つ。無論、そういう試行錯誤自体に意味がある、少なくともその過程で経済効果が産まれる、という主張もあるだろう。しかし、それは古くさいケインズ流の考えで、現代では通用しない(宮沢喜一の無様な退陣を見ればよく判る)。現代の主流である市場主義経済では、投資家(納税者)の利益(期待)に貢献した結果(成果)を出せた者だけが、それに見合った報酬を得られ、そうでない者は排除(リストラ)されるのである。
 現実社会という複雑なジャングルの中に、純粋主義という単純な道具だけで踏み込めば、ジャングルに生息する樹木や野獣に絡め取られ、敢え無く野垂れ死にしてしまうのである。
 純粋主義とは、言い換えれば原理主義である。原理主義とは、他人や周囲とは無関係に自分の主義・主張を押し通したり、周りに強制することを是とする思想である。要するに己を脱却できず、幼児性の抜けないエゴイズムの拡大なのである。

2) 不純地質学
( 利点)
 この方法は最初に結論を決めてしまう。途中の工程・方法はそれから逆算して求める。従って、途中で迷うことはない。工程・方法も予め最適法を選択しておくから、基本的に低コストである。無論、途中で予想と違った現象が発生する事はある。しかし、一般には最初の結論出しの段階でそういうものも折り込み済みだから、少々の手直し程度でことは済んでしまう。
 純粋地質学の立場であれば、得られた結論は本当かどうか判らない。とんでもない方向に行っている可能性もあるし、第一結論が得られるかどうかの保障もない。しかし、不純地質学は最初から結論を決めているのだから、結論が出ない訳がない。又、その結論も必ず予測された方向に収束する。
( 欠点)
 純粋主義の長所はある一定の訓練を受けた者であれば、誰でもこれを実践出来るということであった。不純主義の最大の欠点は、誰でも即実践出来るものではないということだ。何故なら、最初の結論を出すという過程が最も重要だからである。この過程は、単なるヤマ勘ではない。複雑な諸条件を、例えば図面から読みとったり、打ち合わせ協議の中での相手の僅かなニュアンスから問題点を感知して、最適解を一瞬の内に編み出さなくてなならない。同時にそれに至る最適の方法も考え出さなくてはならない。しかもそれらを全て暗算でやるのである。従って、不純地質学者として認められるためには、多年の修練、それも他から強制された訓練ではなく自己研鑽が必要になる。そして、その研鑽結果はあの馬鹿馬鹿しい技術士や、 APECの数量基準で測定されるものではなく、別の尺度で測られべきである。

 密教秘儀の中に“潅頂”という儀式がある。潅頂とは一般僧が阿闍梨 (サンスクリット語のアーチャリヤー)の称号を得るための昇進試験と思えば良い。以前は絶対秘儀とされ、一般に公開されることは無かったのだが、最近では比叡山辺りでもかなり公開している。但し潅頂の内容や実際は非公開である(センター試験の内容が事前まで非公開であるのと同じ)。阿闍梨とは正覚者のことで、現世にあって仏法の奥義を究め、衆生済度の実践と仏法を広めることを許された者にのみ与えられる称号である。ところが、潅頂に行く前の予備試験がすさまじい。いわゆる千日回峯行は序の口で、これを何回も繰り返し、更に各寺院に於ける問答行、座禅行が繰り返される。途中で挫折した場合の自決用に短刀を携える。これらを全てクリアーして初めて潅頂受験資格が得られるのである。又、潅頂も毎年何人という割り当てがあるわけではない。比叡山の場合、潅頂を受けられたのは大体平均すると100数十年に1人あるかどうかである。これに比べると、日本の技術士試験や大学の学位審査などは、幼稚園のお遊戯程度のレベルに過ぎない。
 無事潅頂に合格して阿闍梨の称号をもらっても、それで済むわけではない。継続教育が待っている。この教育とは技術士法や APECのような生やさしいものではない。仏法つまり世尊釈迦牟尼尊者の生き方を要求されるのである。これは辛い。誰だってお釈迦さんと一緒のことが出来る訳がない。従って、弟子達には別の評価基準が必要になる。基本的な評価基準は実践である。
 世尊 (の思想)とともに生き、如何に衆生を済度したかのみが問われる。ナントカ学会に何時間参加したかどうかは何の意味も保たない。但し、彼らには相当の自由が与えられる。自分独自の思想に基づいて別流派を作ることや、それを宗派に拡大する事も許されていたのである。
 不純地質学者とは、この阿闍梨のレベルに到達した者を云う。私利私欲を捨て、他者利益、現世利益を念ずる者のみが「最初の結論」を得ることが出来るのである。これさえ出来ればあとは簡単で迷うことはない。全ては自分の思うように動いていく
 但し、何度も云うが、誰でもこれが出来るなどと思ってはならない。このレベルに達するには@元々の才能、A優れた指導者、B強い目的意識と長期間の修練が必要なのである。そのどれかが欠けた場合には、自分は純粋主義者に過ぎないと諦めて不純主義者の下請けになったほうが良いだろう。

 純粋という言葉の英語表現の一つにナイーブという言葉がある。日本ではこれは誉め言葉として使うことが多いが、英語圏では必ずしもそうではない。しばしば世間知らずの薄ら馬鹿という意味で使われる。

3 、不純地質学者の役割
 前章で不純地質学者とは阿闍梨であると述べた。阿闍梨とは古代インドの錬金術師とする説がある (佐藤 任「偽装されたインドの神々」、出帆新社 1996)。錬金術師はヨーロッパでは魔術師のことである。従って、不純地質学者=魔術師となる。確かに、一見難しい(そうに見える)問題も、不純地質学者にかかれば簡単に解決してしまう。あるいは巧みな弁舌により、混乱した議論をある方向に指導する。純粋主義者の目から見れば、当に怪しげな魔術師なのである。しかし、魔術師とはみずから魔法を使って奇跡を行うものではない。悪魔・妖精・天使らを呼び寄せ、彼らに命令して奇跡を行わせる者のことである。

 魔術には黒魔術と白魔術とがある。黒魔術とは魔王ルシファーとその手先が行う邪道である。死者蘇生術を行ったり、偽の黄金の雨を降らせて、人々を誤った方向に導く。最早 21世紀だというのに、とうに死んでしまった20世紀型戦争を生き返らせようとする某国政府、紙くず同然の社債を発行して、あげくの果てに倒産する某国大企業などがこの例に属する。談合企業や無駄な財団法人もこの類型に属する。しばしば、善良な純粋主義者ほどルシファーに狙われる。何故なら、ルシファーは常に天国に帰りたいと願っているため、善良な人間の清浄な魂が必要なのである。海千山千の魔術師の魂などうっかり喰らうわけにはいかない。従って、魔術師=不純地質学者の周りにはルシファーとその手先は近寄って来ない。
 魔術師が行う魔術は原則として白魔術である。白魔術とは例えばこういうものである。
 例えば、若い男女がいたとする。魔術師は天使キューピットに命令して、愛の矢を射かけさせ、二人の間に愛情を芽生えさせる。
 或いは、強欲な借金取りに追いかけ回されている正直者がいるとする。魔術師は自己破産法という法律の魔術を使って、少なくとも一家心中の悲劇から救う。
 或いは、亭主に先立たれて悲嘆にくれている未亡人がいたとする。魔術師は遺産運用という錬金術を伝授して、取り敢えず生きていける手がかりを与える。
 或いは、日照りで飢えに苦しんでいる土地があれば、魔術師は悪魔や妖精に命令して、地下水脈を探り当てさせ、人々を苦難から救う。

 上の例を見る通り、魔術師が使うものは空虚な言葉ではなく、具体的な道具又は術である。道具や術は悪魔や妖精の所有物であることが多い。彼らは欲が深いから、しばしば法外な契約料を要求する。彼らと交渉し、時には宥め時には脅して契約料を値切るのも魔術師の役割である。しかし、悪魔や妖精より強欲で不正直なのが人間である。ヨーロッパの伝説の中には、人間にしてやられた律儀な悪魔の話がよく出てくる。この時には、魔術師は悪魔や妖精の側に立って、彼らの権利を守ってやらねばならない。
 但し、上の例で挙げたように、魔術師がかける魔法は一時的なものであり、永続性を期待してはならない。魔術師は二人の男女の仲に愛情を芽生えさせる事は出来る。しかし、愛情を育て、永続させるのは二人の問題である。魔術師はそこまで関知はしない。 
 奇跡に永続性を望むなら、魔術師ではなく、神を相手に契約を結ぶべきだろう。しかし、ルシファーは変身の名人だからしばしば神の姿で人間の前に現れることに注意しなければならない

4 、不純地質学者になるためには
 不純地質学者と言っても、純粋地質学者が進化した者だから、純粋地質学を高いレベルでマスターしておかなければならないのは当たり前である。ただ、これで満足していたのなら、何時まで経っても不純地質学者=魔術師にはなれない。不純地質学者は魔術師なのだから、魔術を学ばなければならない。魔術には次の二つがある。

  1. 奇跡を起こすために必要な原理、周辺の森羅万象に関する知識
  2. 悪魔や妖精を呼び出す方法(コミュニケーション)

(1)奇跡を起こすために必要な原理、周辺の森羅万象に関する知識
 この点について、グノーシスの哲学者が特に重視したのは、科学並びに自然現象に関する知識であり、その中でも地質学の知識が重要視された。これは古代の話であるが、現代の魔術師は、現代風の様々な知識を持たなければならない。ノストラダムスの時代とは異なり、知識は社会が複雑化するにつれ様々なものに分化し、魔術師の世界も専門化・分業化が進む。一方でそれぞれの知識は互いに関連し会うので、一つの分野の知識だけでは魔術の効力は薄れる。従って、現代の魔術師には様々な異世界の魔術が必要になってくる。最初に言ったように魔術師は、最初に結論を示さなければならない。現代の不純地質学者=魔術師にとって必要な魔術とは、土木・建築工学、経済、法律、政治、歴史・民俗学、心理学などが挙げられる。

(2) 悪魔や妖精を呼び出す方法(コミュニケーション)
これは時代によって異なる。ノストラダムスやファウスト博士の時代には、古代ヘブライ語の呪文が用いられた。現代ではインターネットやe―メールによるので、主にマイクロソフト社製の電子呪文を用いる。ただ、これだけで交流出来ると思うのが純粋主義者である。不純主義者にとって、永年の人脈の形成が何よりも重要なのは、何時の時代も変わらない。

(2) の内のコミュニケーション手段はともかくとして、他を学ぶのは今の日本の大学で可能だろうか。不可能ではないが、極めて困難である。何故なら日本の大学特に理工系、その中でも地質系学科は純粋主義者が主流を占めており、応用地質学の世界でも純粋主義者が多数派を占めているからである。うっかり異世界の魔術を学ぼうとしたりすると、純粋主義者に邪魔をされたり、足を引っ張られたりする。又、魔術は経験の積み重ねにより会得されるものだから、書物を読むだけでは不十分である。異世界に入り、その世界の魔術師と直接交流し、実践の中から奥義を学ぶのが望ましい。但し、これも簡単ではない。何故なら、一旦異世界に入ったものは、それだけで純粋主義者から異端の烙印を押され、闇の世界に押し込められるからである。それでも構わないと思う者だけが、不純地質学の奥義を学ぶことが出来る。
不純地質学者になるためには

  1. 元々の才能
  2. 優れた指導者
  3. 強い目的意識と長期間の修練
    が必要であると述べた。これらは必要条件に過ぎない。これに加え
  4. 純粋地質学 (に甘えた生き方)を捨てる勇気
    が必要なのである。

                          取り敢えず終わり

 


注1;悪魔の本質

 悪魔が地球史上の何時頃に現れたかはよく判っていない。ある暇な研究者によれば、旧約聖書には殆ど悪魔は登場せず、 BC4世紀頃の「歴代史略」にいきなりサタンが現れるとされる。しかし、大した存在ではない。ところが新約聖書では、悪魔=サタンは神=キリストの強力な敵対者として現れる。つまり、紀元前後に悪魔は強大な勢力に成長したことになる。
 仏教では悪魔は修行に励むシッタールタを悩まし、敵対する存在として描かれる。その代表がデーバダッタである。彼は理想主義者シッタールタに対する現実主義者を代表する。つまり、理想と現実の矛盾の表現である。釈尊の時代から考えると、それは BC5〜6世紀頃である。以上から、悪魔はBC4〜6世紀頃に地球上にいきなり現れたことになる。
 しかし、いきなりというのもおかしい。先祖が居るはずである。神の光に対し、悪魔は闇で象徴される。そうするとゾロアスター教の二元説が思い浮かぶ。悪魔の祖先は BC1000年頃に、西南アジア(メソポタミアかイラン高原)辺りに出現したと考えられるのである。
 キリスト教社会では悪魔は神に受け入れられることは無かった。しかし、大乗仏教の世界では、悪魔の代表であるデーバも、その後仏法守護神として復活する (法華教提婆達多品)。法華教の成立はBC1世紀からAD2〜3世紀頃と考えられている(研究者によって異なる)。提婆達多品は原法華にはなく、法華教後期の作品である。いつ頃成立したかはよく判っていないが、3世紀の始め頃にある王がストウーパを盛んに建立し、臣下・民衆にもそれを奨励したといわれる。ストウーパの建立には後で述べるように悪魔の手助けが必要である。提婆達多を体制内に組み込む必要があったのだろう。従って、提婆達多品の成立は3世紀の始め頃で、その頃には仏と悪魔との間に何らかの妥協・協調体制が生まれていたと考えられる。
 以上のことから考えると、悪魔とは単なる想像上の産物ではなく、具体的な実体を持った存在ではないかという疑いが発生するのである。
 悪魔は英語ではサタンだが、古代ペルシャ語ではシャイターン又はシュイターンと呼ばれる。筆者は子供の頃に今昔物語「大江山酒呑童子」の絵本を読んで、酒呑 (シュテン)の語源が何かが判らなくて思い悩んでいたことがある。10年程前にある本を読んで疑問が氷塊した。シュテンとはシャイターン=悪魔の意味である。但し、30年以上もこればかり考えていたわけではない。
 悪魔が強大な勢力として復活するのは、中世ヨーロッパである。この時代、悪魔社会に対し様々な研究が行われ、その組織・構造・行動様式も明らかになってきた。ある暇人がいて、悪魔の数を数えたことがある。その結果は暇人の数に比例してバラバラなのだが、最も信頼される数字としては 700数十万匹というところである。中世ヨーロッパの悪魔は結構お人好しで、契約さえすれば何でもやってくれる。ただの石ころを金貨に変えるなど朝飯前である。我々の側にもいるだろう。直径55_の石の棒を1m当たりン万円で売りつける〇〇地質株式会社とか。

 彼らが最も得意としたのは、橋を架けるとか、城塞・聖堂を作るとかいう、もの造り (メーソンリー工)である。インドではストウーパの建立に協力する。その他トンネルも掘るし、愛人を作る媚薬の調合もする。人々の欲望を適えたり、苦難を救うことは何でもする。但し、有料で契約期間は20年が相場とされる。
 これらの点から考えるとヨーロッパの悪魔とは、キリスト教以前の鉱山・土木・建築・医学に関する技術者集団の意味と考えられる。むしろ、鉱山 (地質学)が根本になって、そこから土木・建築・医学に関する技術(方便)が派生したと考えた方が判りやすい。ここまで書くと、何故酒呑童子がシャイターン=悪魔になるのかの意味は判ると思う。これらの技術や知識は、古代・中世では混沌とした重苦しい集合的無意識の世界に閉じこめられていたのだが、近世に入ってキリスト教の光が入るようになり、その中から物理や数学といった比重の小さい部分が泡のように沸き出してきた。要するに、物理や数学などは悪魔世界ではあぶくのような採るに足らないものに過ぎないのである。 

 彼らはキリスト教以後になると、反キリスト的存在として抑圧され、地下に潜るようになる。但し、これは地域によって温度差があった。ヨーロッパ大陸では非道かったが、ブリタニアやアイルランドではそれほどでもなく、両者は結構仲が良かったみたいである。中世騎士物語を見ると、非カトリックであるドルイドのマーリンは、カトリックであるアーサーを常に助けている。これが後世のアルフレッド大王物語になると、アーサー王時代のようなケルト的呪術性はなくなり、どこか中小企業の社長出世物語のようになってしまうのである。

 ともかくも、キリスト教による抑圧は厳しくなる一方である。そのため表はキリスト教徒を装うが、かつての技術を継承する集団を形成するようになる。彼らはヨーロッパ中に独自のネットワークを持ち、情報・技術・商売の交換を行う。この集団の名をフリーメーソン (自由な石工)と呼ぶ。彼らは当時の一般ヨーロッパ民衆では想像も出来ないような…悪魔の仕業としか理解出来なかった…技術を独占していたのだろう。この結果、フリーメーソン結社は、しばしば反キリスト的オカルト結社、悪魔と手を結んだ怪しげな集団と見られるようになる。彼ら自身がそういう宣伝を行った可能性もある。理由は技術を独占するためである。

 17世紀、ヨーロッパで「薔薇十字団」騒ぎというものがあった。現代日本のオウム真理教騒ぎと似たようなものである。デカルトはその生涯の後半をドイツベルリン大学教授で過ごすのだが、実は彼も薔薇十字団の一味ではないかとパリのマスコミ(現代日本のワイドショーと思えば良い)に騒ぎ立てられ、身の危険を感じてドイツに逃げ込んだのが実態だ、というのが現代の最も有力な説である。
 ニュートンやライプニッツも薔薇十字団の一味ではないかという疑いを懸けられたのだが、ニュートンは処世が巧みだったので国王に取り入り、ケンブリッジ大学応用数学科主任教授の地位を手に入れ居座ってしまった。更に彼は造幣局長官のポストまで手に入れている。悪魔の上前をはねているのである。ニュートンの方が一枚上手だった。
 薔薇十字団のバックにあったのがフリーメーソン結社だったと当時の大部分の人は思っていたらしいが、現代では薔薇十字団そのものが実在したかどうかも疑わしいとされる。

 現代世界でフリーメーソンが最も力を持っているのはアメリカ合衆国と考えられる。なにしろ、首都ワシントン DCはフリーメーソンの教義に基づき、フリーメーソン自身が設計したという説がある位だから。
 フリーメーソンは秘密結社だが、その内容はかなり世間に知れ渡っている。大きな本屋に行けばフリーメーソンとその一派の解説書が幾らでも置いてある。フリーメーソンは独特のシンボリズムを持つ。フリーメーソンを表すシンボルは多数ある。最も有名なのは、秤とコンパスだが、棺桶や骸骨というのもある。その中に五ぼう星とピラミッドがある。この間、 TVを見ていると、NYのグラウンドゼロつまり9.11跡地利用案の中に、5角形のビルを建て、その頂上にピラミッドを置く、というものがあった。これはまるっきりフリーメーソンのシンボルである。おそらくこの提案者はフリーメーソンの一員か、その教義に影響を受けていると判断される。又、これが、日本のマスコミにも報道されている点から考えると、本命案かそれに近いものと思われる。と言うことは、現在のアメリカの政策は、フリーメーソンに大きく影響されているとみなされるのである。一方、フリーメーソンはそもそも反ユダヤ勢力とも言われる。そこで筆者は困るのである。何故なら、現在のアメリカ政府の外交政策は完全に親ユダヤであって、フリーメーソンとは路線が異なる。アメリカ政府はフリーメーソンと縁を切ってしまったのだろうか。フリーメーソンの持つ巨大な財力と影響力を考えると無視は出来ないと思うが。別に筆者が困っても国際情勢に関係は無い。一番困っているのはブッシュだろう。


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