山口県の豪雨災害


 九州道で法面崩壊による事故が多発しています。筆者が疑問に感じるのは、数日前から北九州地方では、梅雨前線に低気圧が接近し、、警戒を強めなくてはならない状況だったにもかかわらず、何故ICを解放したのでしょうか(旧道路公団では時間降雨量50oでIC間閉鎖になる)?事故が起こったのは7月25日。丁度、「高速何処でも1000円期間」だ。売り上げを上げるためにIC閉鎖を怠ったのではないか?
(09/07/27)


 今回の山口県災害で、降り始めからの降雨量は、防府市で239oとされています。これは土砂災害が発生する目安とされる降雨量(230o前後)にほぼ等しく、災害降雨としては特に珍しいものではない、平均的な降雨と云えます。
(09/07/25)


 今回の山口県豪雨をメデイアではよくゲリラ豪雨と表現していますが、これはゲリラ豪雨なんかではありません。何故なら、その前から西日本には梅雨前線が停滞し、そこに低気圧がやってきて、局地的集中豪雨が発生することが予測されていたからです。おまけに降雨の移動はネットで見られる。何処にいるか判るようなものを、ゲリラとは呼びません。これを温暖化と結びつけたがる人もいるが、今回は太平洋高気圧が弱かったため、前線が本州付近に南下してきたのが原因。温暖化とは逆の現象です。
(09/07/24)

山口県で豪雨による土砂災害が発生しています。山口〜広島県にかけての西中国地方の地質構造は新しい構造線の発達で特徴付けられます。
 今回災害を発生した防府市周辺では左の写真のように、NNE-SSW方向と、それに斜交するNNW-SSE及びE-W方向のリニアメントの発達が顕著です。又、防府〜山口間には、新しい広島型花崗岩が広く分布します。
 国道262は当にリニアメントに沿って走っている訳です。佐波山トンネルはリニアメント沿い、土被りも小さく施工は随分苦労したでしょう。
 今回の災害は花崗岩とリニアメントが大きな役割を果たしたでしょう。
 国道262、佐波山トンネルとリニアメントとの関係。上の図に比べ、より小さいオーダーのリニアメントが発達することが判ります。山の斜面に見える皺のような模様は、花崗岩中の定方向節理が作るケスタ。
 写真下半は雲のため判らない。トンネル防府側坑口南部に東西性のリニアメントが見えます。これが土石流の素因になった可能性が考えられます。
 花崗岩は風化に弱く、風化すると「マサ土」という土に変わります。これは対浸食性に乏しく、流速が早くなると簡単に流出する性質を持っている(花崗岩地帯のダム・・・例えば六甲や佐久間・・・の堆砂を見ればよく判る)。リニアメント沿いに薄い粘土(幅数o程度でよい)があれば、それは不透水層になるので、急激な降雨があるとその周辺で間隙水圧が急上昇する。そこにマサの様な浸食されやすい土があれば、それは簡単に液状化を起こし、土石流を引き起こす。
 

 
10人の死者を出した「ケアライフ高砂」の場所。
 「ケアライフ高砂」背後斜面。マスコミ報道などを総合すると、土石流は左図の矢印の通りに流下し、老人ホームを直撃したと見られる。
 崩壊の発生地点は左図の矢印右下端あたりと思われる。要するに谷の先端で生じた谷頭崩壊で生じた土砂が、周囲の土砂を巻き込みながら混濁流となって、高速で流下するのが土石流である。つまり、土石流は最初は小さくても、下流に行くほど成長する。この混濁流は不飽和だから(中に空気を含んでいる)摩擦抵抗が小さい。そのため、高速になる。その速度は毎秒10mを越える・・・カールルイスより早い・・・ので、脱出・避難はまず不可能。
 このとき注意すべきは、混濁流は沢の直下とその周りの土を浸食するだけで、その外側には殆ど影響を与えないことです。これは崩壊直後の下の写真からも読みとれます。
 そして、土石流の原因になる谷頭崩壊は、実はバカバカしいほどほど規模が小さいことが多い。と言うことは、この谷頭崩壊で発生した土砂を下流に流さなければ、土石流は生じないか、生じても規模はうんと小さく出来ることになる。ところが、現在の砂防計画では土石流が十分成長した中下流に砂防施設を作ることが多い。
 この際発想を転換し、砂防事業の焦点を最上流に持っていくことが提案される。例えば、左図であれば谷頭崩壊の最有望地点であるA、B地点に基本砂防施設を作り、その下流域では側面や河床の洗掘を防ぐための床固め工とか、護岸工で対応するような手法の活用である。
 今回の様に崩壊が発生した後でも、この方法は適用可能と考えられる。
 
 左の写真は某ウエブサイトに載っていた写真のパクリです。この写真を基に本崩壊の経緯を辿って見ましょう。
 土石流は被災施設背面斜面内の沢に沿って発生しています。この沢は上流でY字型に分かれ、その向かって右側の原頭部(上の図のA地点に相当)で最初の崩壊(0次谷頭崩壊)が生じ、そこで発生した不飽和の土塊が核となって、沢沿いの土砂を巻き込み、沢を溝状にえぐって流下していることが判ります。周囲の斜面には部分的な崩壊が見られますが、生産土砂量としては微々たるもの。斜面にも全体として大きな変状は見られません。

 
 このように、一回の土石流で崩壊で生じる土砂量は、流域面積に比べ大したことはない。ところが実際の砂防計画では、流域面積に浸食深を一律に乗じ、それを生産土砂量として計画を進めるから、実態に比べ過大な砂防施設が必要になる。おまけに浸食深の調査そのものがいい加減で、推定と称する当てずっぽうの数字がまかり通る。これというのも、国が最も重要な調査費特に現地調査費をケチることや、中間に入っている自治体の中間搾取が酷いからである。そういう意味では、今回の災害も人災と云えなくはない。
(09/07/25)
 なお、施設の右上方斜面裾に井桁擁壁のような茶色の構造物が見えます。その上方の三角形部は、周囲に比べやや緩傾斜になっています。この点と、斜面下方に竹を植林されていることを合わせると、この斜面は過去に崩壊履歴があったことが想像出来ます。斜面裾構造物はこれに対する防災施設か、とも考えられます。幸い、この斜面は今回の降雨では異常はなかったようです。しかし、この斜面が崩壊すれば、その被害は今回のそれとは比べものになりません。今後、斜面内の土質・地下水の状況を十分調査する必要があるでしょう。

 では、この崩壊がいつ頃起こったかを推理してみましょう。まず、崩壊部の脇に、崩壊地形(滑落崖)がかなり明瞭に残っていることが判ります。これはこの崩壊が、周囲の山地斜面が形成されてから後に発生したことを意味します。日本の山地斜面の原型が形成されたのは、せいぜい数万年昔のことです。
 次に斜面の末端に注目します。斜面末端は真尾川沖積面を覆っています。沖積面の形成期は概ね2〜3000年前。真尾川沖積面は水田として利用されています。日本でこんな山間僻地まで水田耕作が進んだのは、せいぜい戦国期(数100年前)以降です。崩壊発生時期は、崩壊斜面の崩土が真尾川水田を覆っていれば、戦国期以後の過去2〜300年ぐらい、逆に水田が崩壊地形を避けて造成されておれば、弥生期以後、戦国期以前の1000数100〜数100年の間と考えられます。
 これを確認しようと思えば、斜面下方でボーリングを行い、崩壊土砂と真尾川沖積層との関係を調べれば良いでしょう。農耕土の様な腐植土層があって、その年代がC14などで判れば、結論が得られます。

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