1、地盤の種類

 阪神大震災では、非常に大きな地震災害を出しました。この原因はなんでしょうか?地盤が原因だ!という人もいれば、いやそうじゃない、地震動が原因だ!という人もいる。どちらが正しいのでしょうか。実際は、その両方が関係しています。地盤が原因と思われる被害もあれば、そうではない被害もある。但し、両者の影響の度合いは、あらゆる処で均一ではなく、場所によって異なっています。この違いは、やはり地盤の違いに起因すると言えます。ではこの地盤の違いは何から産まれるのでしょうか?

1、自然地盤
  1-1)軟弱地盤と硬質地盤
  1-2)軟弱地盤は悪いことばかりではない
  1-3)硬質地盤は間違い無く大丈夫か?
      1-3-1)移動地盤
      1-3-2)空洞(陥没)地盤
  1-4)液状化する地盤
  1-5)その他の特殊地盤
2、人工地盤
  (1)盛土
  (2)捨て土
  (3)浮体地盤

 地盤の”地”は大地の”地(geo)”で、語源は、ギリシア神話の陸地の神ガイアに求められます。ガイアは、この世の全てを産み落とした大地母神で、雨を降らせて水を産み、種子を産んで作物を実らせる、豊穣の神である。又、金、銀、銅、鉄のような鉱物資源を与える、富と恵みの神でもある。しかし、一方で、恐ろしい祟り・呪いの神、復讐の神でもあります。その実体は蛇体で、火を吐き、生け贄を求めるとも伝えられる*1。あまりの恐ろしさに、彼女と交わることが出来るものは誰もいない。ただ一柱海神ポセイドンだけが、彼女と交わることが出来た。ポセイドンとの間に産まれた子が、ゴルゴンの3姉妹で、その一人が、例のメデューサと聞けば、彼女の恐ろしさが、大体想像出来る。このガイアが座る場所、それが”盤”です。従って、”地盤”の意味には(1)我々の生活を支え、文明を発展させる恵みの部分と、(2)それを破壊する祟りの部分、が共存すると言うことを、忘れてはいけません。
1)大地の恵みとは、農作物や鉱物資源を与えるだけでなく、現代では我々の生活・活動空間を提供し、更にバブル以降は地価高騰で、土地資産という目に見えない価値を膨らませました。しかし、これは極く一部の階層にしか恵みを与えていないので、いずれ祟りを受けることになります。
2)大地の祟りとは、まず地震・火山・地すべりといった、自然災害を思い浮かべます。それ以外に、バブル崩壊後の地価下落による、大量の不良債権の発生と、それに伴う不景気などは、増長した人間に対する、ガイアの祟りの一つでもあります。鉱物資源の開発は、人間にかつてない文明の発達をもたらしました。しかし、その結果、公害、環境破壊、地球温暖化という災厄も、もたらしています。これもガイアの祟りです。
 
*1;古代ギリシア人は、火山噴火、地震、地すべりといった自然災害を、ガイアの祟りと考えた節があります。蛇体と言うのは、溶岩流の事でしょうか?他に、人間が神の怒りに触れて、大地の裂け目に呑み込まれた、と云うような話しもあります。これなど、地震による地表地震断層の発生か、地すべりの比喩と考えられます。
 なお、日本では、大和の地主神である大物主の性格が、ガイアに非常によく似ている。大物主の親分各に当たるのが、ヤマタノオロチ。これも蛇体。両者は、かつて日本列島の先住民族(縄文期或いは先縄文期)で、広く信仰された神(私見では、農業神に対抗する鉱山神)ではないか、と考えられます。

 以下、地盤の恵みと災厄の両面に着目して、地盤の種類を分類していきます。


 地盤には、大きく、自然に出来たもの(つまり、ガイアの遺産)と、人間が人工的に作り出したもの(例えばプロメテウスの遺産)の2通りがあります。まず、地球上の自然地盤にどの様なものがあるか、を解説します。
1、自然地盤
1-1)軟弱地盤と硬質地盤

 阪神大震災に加え、マンション耐震ねつ造事件があったりして、一般市民の関心は、地震に大いに集まっています。ここでマスコミなんかによく登場する言葉に「地盤が良い、悪い」があります。地盤の善し悪しは何で決まるのでしょうか?具体的な例から行きましょう。よく知られているように、関東大震災では、下町と山の手では、被災状況に大きな差が見られました。特に下町では、木造家屋の殆どが倒壊し、大被害をだした。一方、山の手ではそれほどでもなかった。これは、地盤の固有周期の差で説明されています。下町の地盤はもともと固有振動数が低く、それが固有振動数の低い木造家屋の揺れを増幅して、被害を大きくした。つまり、下町と山の手の被害の差は、地盤の差に起因する、即ち下町の地盤が”悪く”て、山の手の地盤が”良い”という事になります。この場合、地盤の良否の違いは、「固有振動数f」という物理量で決まる事になります。固有振動数は、地盤の剛性率(G)に依存します。そして、Gは地盤(土)の骨格構造を反映し、更に、これは地盤が形成されて以降の時間に依存する(これを土の続成作用と言います)ことも判っているのです。Gとfは概ね反比例の関係があり、Gが大きくなれば、fは小さくなる。つまり、”悪い”地盤はGが小さい、即ち土の骨格構造が未成熟、逆に”良い”地盤はGが大きい、即ち続成作用が十分行われ、骨格構造がしっかりしている、という事になります。
 日本道路協会「道路橋示方書(耐震設計編)」では、一般的な地盤種別を次のように定めています。

地盤種別 地盤の特性値TG(sec)
T種地盤 TG<0.2
U種地盤 0.2≦TG<0.6
V種地盤 0.6≦TG

 又は

地盤種別 沖積層厚HA+洪積層厚HD
T種地盤 2HA+HD≦10
U種地盤 両者の中間
V種地盤 HA≧25m

                             ここで、TG=1/f
                             又、  TG=4(Hi/Vsi)
                                       TG;地表から耐震基盤までの間の地盤特性値(固有周期)
                                       Hi;地表からi番目の地層の層厚(m)
                                       Vsi;地表からi番目の地層のS波(縦波)速度(m/sec)
                                          弾性論より Gi=ρiVsi2
                                                    Gi;地表よりi番目の地層の剛性率
                                                    ρi;地表よりi番目の地層の密度
 なお、耐震基盤をどう設定するかは、結構難しく、設計や申請時には揉める話しになります。

 ここで、地盤としてはT種地盤が最も良好で、次いでU種地盤、V種地盤がいわゆる悪い地盤だと云うことが、イメージ的に判ると思います。一般的な建物構造の対応としては
1)T種地盤・・・・代表的地盤としては、東京の山の手台地です。 通常の基本的な基礎を用いて問題はない。
2)U種地盤・・・・T種、V種の中間で個々に対応を検討する。
3)V種地盤・・・・いわゆる軟弱地盤であり、東京では下町に当たります。建物の耐震性能に検討が必要。基礎もクイ基礎とか地盤改良などの対策が必要。
が挙げられます。なお、この区分は通常の工学が取り扱う範囲、つまり地下数10〜100m程度の範囲を対象にした話しです。最近話題の長周期地震動は、これとは全く別の領域を対象にしているので混同しないよう注意して下さい。
では、このような山の手と下町で、この差はどうして出来たのでしょうか?
1-2)軟弱地盤は悪い事ばかりではない
 これも有名な話しで、大抵の人は、中学か高校の社会科で習っていると思いますが、明治になって、アメリカからきた博物学者のモースによる大森貝塚の発見が、その端緒になります。関東平野、特に南関東では、平地から突出した高台を”台”、平地を”田圃”と呼び慣わします。関東地震で被害が少なかった山の手は”台”に相当し、下町は”田圃”に相当します。1926東木龍七は、南関東の貝塚の分布を研究し、それが”台”と”田圃”との境界にあることを発見し、旧海岸線を復元しました(下図)。


 上図で、旧海岸線の内側(貝塚が分布する側)が”台(高地)”で、外側の海に接している部分が”田圃(低地)”です。関東大震災の被害が集中したのはこの低地で、東京下町もこの中に含まれます。一般に、この低地を構成する地盤を「軟弱地盤」、台地を構成する地盤を「硬質地盤」と呼びます。つまり、現在の軟弱地盤地帯は、かつて縄文時代には海だったわけです。縄文時代の関東地方の海岸線は、陸地と海が複雑に入り組んだ、今で云うリアス式海岸だったことが判ります。現在なら、鳥羽半島の海岸が、これに近いでしょう。
 震災の後、復興院総裁になった、後藤新平は東京、川崎、横浜地区に数100本のボーリングを行い、復興計画の基礎資料にしました。これは世界最初の都市地盤図である、と同時に現在でも東京都防災計画の基本資料になっています。しかし、何分大正期の事業ですから、ボーリングと言っても、粘土、砂、礫などの土質が記載されているだけで、資料としては大雑把なものに過ぎません。戦後の復興〜高度成長期にかけて、欧米から導入された新しい地盤調査技術や、年代測定法などの新兵器を使って、軟弱地盤の実態を明らかになりました。下の図は、東京の山の手から下町にかけての、地盤の模式断面図です。

 上図で、沖積層として白抜きになっている部分が、所謂「軟弱地盤」です。これは、年代的には、概ね10000年より新しく、土質的には海成の粘土層が大部分を占める地層です。「硬質地盤」である台地の一番上に、関東ローム層という地層が分布しています。これは火山灰質の地層で、ロームという呼び方は正しくありません。昔誰かが何も考えずに”ローム”と呼んだのが、今も残っているのです。この地層の年代は概ね20000〜100000年位。つまり、硬質地盤の年代は20000年前と言うことになります。では、10000年から20000年の間の地層は無いのでしょうか?実は上図の沖積層を作っている谷の底、概ね-20m前後以深に、そういう地層は存在します。但し、この地層は地表には露出しないので、沖積層の一部に含められたりするのです。なお、上図のような地盤構成は、日本の臨海都市の一般的パターンです。硬質地盤が洪積層であったり、岩盤であったり、断層で地層が大きく変位したりしている程度の違いです。
 ではこのような海岸線の出入りはどうして起こったのでしょうか?それは最も最近の第四紀(現在では人類紀と云う)という地質時代での気候変動の結果です。下の図は、過去10000年間の地球の平均気温変化をあらわしたものです。2万年ほど前に気温は過去100万年で最も低くなり、その結果、平均約200mほど海水準は低下し、海岸沿いには深い谷が切り込みました。その深さは、日本の海岸沿いでは数10m以上に及びます。その最も長いものは、東京湾から埼玉県中部にまで達します。
 その後気温は上昇に転じ、海水面は上昇し、谷底には陸源の物質が堆積するようになります。この海面上昇は約1万年前に、-20m付近に一旦落ち着きます。その後更に気温は急速に上昇し、約6000〜7000年前にピークに達しました。この結果、谷の底には軟弱な泥土が堆積します。これを地質学では「更新統」、一般には「沖積層」と呼びます。これがいわゆる軟弱地盤の正体です。又、これ以前の氷河時代堆積物を「最新統」、一般には「洪積層」と呼びます。この結果海水面は今から約5〜6mも高くなりました(縄文海進、国際的にはアトランテイック海進)。この結果、ウルム最氷期に形成された海岸沿いの谷は全て海になりました。この結果、2万年前に作られた深い谷は軟弱な泥土で埋め立てられていきました。


さて、図5(東木)は、縄文時代の気温が一番高かった・・・海水準が一番高かった時期、概ね6000〜7000年前・・・の海岸線を表すものです。この図の中に、内陸奥深くまで樹枝状に、海岸線が切れ込んでいる様子が見られます。この部分は、その後の海退で、周辺の台地とは殆ど地形の区別がつかないことが多いのですが、ここには数10m以上の新しい堆積物があり、更に上部20m位は軟弱地盤になります。これを特に「溺れ谷」と呼びます。

 ところが、約3000年ほど前から気温は次第に低下し、2500年ほど前には一つの小氷期(弥生小氷期)を迎えました。この氷期で海水面は再び低下し(弥生小海退)し、海岸線も後退して、1000〜2000年ほど前に、ほぼ今の状態に落ち着きました。この結果かつての海は海岸沿いの低湿地帯に変化しました。その後寒冷〜温暖化を繰り返しながら、次第に気温が低下していることが判ります。気温上昇と海水面上昇が正の相関関係を持っていることは、様々な証拠から顕かです。
つまり、縄文人は、急に海岸線が遠のく・・・即ち陸地が広がる・・・のを見ていた訳です。その時、彼等はどう考えたでしょうか?陸地は広がるため、海へ行く距離が長くなるので、海面漁業民にとっては不自由な状態が続く。又、陸化しても一面の湿地帯で、人が住める状態ではない。そもそも、狩猟・採取・栽培文化の縄文人にとって、あまり住み心地の良い環境ではなかったかも知れません。

 出雲神話に「国引き神話」と言うのがあります。「ヤツカミズオミノズメノカミ」という出雲の地主神が、「出雲は未だ出来たばかりで、クニが小さい。ワシが国を引き寄せて大きくしてやろう」と、一方は伯耆大山に、一方は三瓶山に綱を架け、「くにこ、くにこ」と呼びかけて、新羅、臼杵、能登から余ったクニを引き寄せた、とある。
 大昔の出雲地方をイメージしてみよう。例えば、6000年前には、島根半島は中海の向こうの島だった。
 右の図は、最新〜更新世初期にかけての出雲地方の古地理。図中央の島根半島と本土との中間に延びる帯状地帯は、縄文海進期では海域。陸地は今の中国山地とその縁辺に連なる丘陵地のみ。
 ところが3000年ほど前から海面が段々と低くなる。それに連れて、海岸流によって、海岸には砂州が出来、それが成長して、ついには島根島と本土が繋がり、島根半島になってしまう。島根半島東端と大山を繋ぐ線が弓ヶ浜半島に、半島西端の日御碕と三瓶山を繋ぐ線が出雲平野西端の海岸線に殆どぴったり一致します。つまり、これが国引きの実態と考えられます。なお、ノズメノカミは中世では、大太法師、つまりダイダラボッチになるそうである。ノズメノカミの先祖がスサノオノミコトで、更にその子孫が大国主(オオミナツチノカミ)になると云われる。とすれば、スサノオのヤマタノオロチ伝説は縄文期の記憶になるのだ。新羅・臼杵・能登などは実際の陸地を寄せたと言うより、外国からの移民ではないでしょうか?

 しかし、その頃、西日本では別のことが起こっていた。高天原の神々はアメノウキフネに載って世界を巡航し、ヤマトを発見し、これを「豊葦原瑞穂の国」と呼んだ。しかし、この国にはマツロワヌものども(縄文人のことか?)が多く、五月蠅くて仕方がない。そこでニニギノミコトに、これを平らげることを命令する。大陸からの稲作農業の伝播である。狩猟民にとって只の湿地帯は、稲作農耕民にとっては、こんなに有り難い土地はない。まず、地形が平坦だから農地を開発するのに手間が掛からない。豊富な水を確保出来る。土地は、腐植土で出来ているから、栄養分に富み、しかも軟弱だから、稲のように根の弱い植物でも生育出来る。つまり、稲作農耕民にとって、軟弱地盤は恵みの土地だったのである。そしてたちまちの内に、稲作農業は列島に伝播していきます。
 この尖兵が、神武天皇とその一行です。誰だって、神武天皇という人物が実在したなどと信じている人間はいない。しかし、これに象徴される武力集団のヤマトへの侵攻はあったかもしれない。では神武天皇軍は何処にやってきたのでしょうか?書紀では、神武軍は、ヒムカ(南九州の一部と云われる)を発して、臼杵、広島、岡山を経て、近畿に至り、ナミハヤの渡しを渡って、河内のシラカタに上陸し、生駒を越えてヤマトを目指したと云われる。シラカタとは、現代古代史の識見では、東大阪市石切のあたりとされる。そこで、本当に石切に上陸出来たか、という疑問が生じるのである。縄文海進期には、河内は東の生駒山地、西の上町台地、南の泉北台地に囲まれた内海だった。その後の気候変化に伴い、古地理環境は変化する。では、神武軍がやってきた頃の河内やヤマトの状況はどうだったでしょう?二つのケースを考えて見ます。
1、皇紀説
 皇紀説によると、神武天皇即位は、今から約2670年前後になります。その頃の河内平野は、下図左のように海は大阪湾の方に後退し、「河内湖」と呼ばれる淡水湖が広がっていました。石切はこの湖の東端中央当たりに位置します。水深はかなり浅くなっているので、喫水の浅い舟なら航行可能ですが、湖岸は・・・この当たりのボーリングデータから見ると・・・丁度今の琵琶湖北岸のように、一面の泥土の海で、とても大軍を上陸させるのに適した地盤とは云えません。上陸しても泥に足を取られて歩行は不可能。そこを待ち伏せされるとイチコロ。おまけに石切から生駒山頂までは、比高1000m近い急坂と急崖の連続。とても軍事侵攻に適した場所とは云えません。
2、古墳時代説
 人皇10 代は皆恐ろしく長命で、平均すれば120才位になる。即位年齢を平均20才とすると、人皇10 代は10×100で、約1000年となる。これは神武天皇即位を、後世中国の辛酉革命説に則り、中国暦法を用いて逆算したからです。これを当時の平均年齢と考えられる40才、平均在位期間を20年とすると、10×20=200年。つまり皇紀説より800年ほど後になり、今から1800〜1900年ほど前のAD2〜3世紀頃になる。この頃はいわゆる古墳時代前期で、ヤマトに何らかの地方政権が出来たと考えられる時代である。下図右は1600年ほど前の河内平野の状態である。河内湖は古大和川による埋め立てが進み、以前より更に縮小している。複雑な水路が、迷路の様に発達した一面の沼沢地で、底の浅い小舟でしか侵入できない。湖岸は相変わらず泥土が広がる。状況は少しも改善されません。

 このことは、神武軍上陸地点は河内ではないのではないか、と疑われるのです。シラカタは素直にヒラカタと読むべきではないでしょうか?日本語では、シとヒが入れ替わる事があります。ヒラカタは延喜式では摂津に組み込まれますが、河内の直ぐ隣です。又、淀川左岸で、ここには台地が迫ってくる。、軍勢を上陸させるのに適当な浅瀬も直ぐに見つかる。更にヒラカタから、生駒山地北部を抜けるルートは、標高も低いので、中央部ルートよりはヤマト侵入にずっと楽である。

 さて、時代は変わり、戦国時代も末期。豊臣秀吉が天下を統一すると、諸国の大名も、「もう戦国の世の中ではない。これからは民政・商業に力を入れねば」というわけで、みんながモデルにしたのが大阪の都市造り。大阪は淀川の出口にあたり、複合三角州が発達する。秀吉は掘り割りを巡らして、排水を容易にし、湿地帯を埋め立て、堺の街をそっくり移し替えました。かつての人も住めない湿地帯を、近代都市に仕立て直したのです。これは、軟弱地盤地帯が平坦で、都市造成が容易だったことと、河川、海に接していることから、衛生・流通・防衛に有利だったからです。現在の県庁所在地の大部分は、この時代に作られ、都市計画コンセプトは、大阪のそれと共通しているものが多い。一番遅れていたのが、実は江戸だったのです。江戸で、臨海地帯の開発が行われるようになったのは、関ヶ原以後。大阪に比べ約10数年、他の諸都市に比べても数年は遅れている。更に、昭和の高度成長期では、これの拡大再生産が行われました。これらは、軟弱地盤にも「ガイアの恵み」がある、ということを意味しています。
 しかし、いいことばかりではありません。東京では、中高層以上の建物では、上図の「東京礫層」という地層を、基礎の支持層にするのが普通です。ヒューザー物件の中の、グランドステージ住吉なんかは、上図で「隅田川」の辺りになるので、基礎はおおよそ50m前後のクイ基礎になります。昨年の国会証言で、姉歯は「基礎は在来工法で設計した」と証言したので、おそらくこの程度のクイは使ったと思われます。基礎工事費はべらぼうになります。下手をすると、建物本体より高くなるかも知れない。木村建設は、どうも基礎に関しては、ノウハウを持っていないらしい。それでは、基礎に関しては関東業者の言いなり。これでは利益は出せない(大手のゼネコンは、基礎で利益を出すのですがね)。そこで、なんとか利益を出すために、姉歯に鉄筋を減らすよう迫ったとすれば、そこから起こった一連の出来事は、当に「ガイアの祟り」ということになります。

 なお、上では臨海地帯の軟弱地盤しか述べていませんが、内陸の湖沼周辺にも、もちろん軟弱地盤は発達します。特に、琵琶湖、諏訪湖、猪苗代湖といった大きな内陸湖岸には、臨海地帯と変わらない位の厚い軟弱地盤が堆積しています。地球温暖化が進めば、海水面が上昇するので、臨海部では陸地は狭くなりますが、内陸湖沼では逆に湖水面が低下し、陸地(軟弱地盤地帯)が広がります。何故か、考えて下さい。

1-3)硬質地盤は間違いなく大丈夫か?
 前項で、軟弱地盤は悪い事ばかりではない、と云いましたが、それでも「軟弱」という言葉に、良い印象はありません。その逆に、「硬質地盤」なら問題は無い、と思ってしまう人も多いでしょう。しかし、世の中には「硬質」であっても、「欠陥」があるケースも多いので、油断してはいけません。欠陥地盤の幾つかを紹介しましょう
1−3−1)移動地盤
 下左の写真は、徳島県は祖谷渓のある地区の状況です。写真中央の緩斜面部は地すべり地帯。周辺の山は三波川帯。ガチガチの硬質地盤です。地すべり地帯も、今は何の問題もなく、平穏な状態を保っています。地すべり地帯の地盤も、上に挙げた基準(固有振動数)から見れば、十分硬質地盤になります。ところが、この種の地盤は目に見えないが、じわじわと動いている事が多い。左の図は、去る中越地震で崩壊した、旧山古志村の地すべりです。この地すべりも、地震やその前の豪雨が無ければ、右の図のように平穏を保っていられたのでしょう。このように、地盤そのものは硬質なのだが、全体としての安定性が悪く、じわじわと動いたり、何かの拍子に動き出す地盤を「移動地盤」と呼ぶことにします。

「応用地質Vol46 NO3」の表紙を借用

 しかし、何故、このような不安定な処に人が住むようになったのでしょうか?日本の地すべり地帯に共通してみられるのは、「落人伝説」です。四国の祖谷渓や、九州の上椎葉には平家落人伝説がある。筆者が30年ほど前に関係したことのある、山形県月山地すべりには、源氏・・・と言っても木曾義仲・・・落人伝説があった。都で敗れた木曾源氏は、北陸道を伝って奥州に逃れ、たどり着いたのは、出羽の国は庄内平野。しかし、そこは既に先住民の農耕地になっていて、蟻の入り込む隙もない。そこで、赤川を遡って、月山の麓、田麦俣までやってくる。廻りは峻険な山又山。元々、修験道の修行地だから当たり前。その中に、比較的傾斜も緩く、土地も軟らかく、人が住めそうな(上図の左のような)場所が見つかった。そういう処に限って地すべり地なのだ。雪解け(四国や九州では台風)の度に土塊が動くから、自然に窒素同化作用や、炭酸同化作用が進むので、土地は肥えている。地すべり地だから、周囲に水は豊富。但し水持ちが悪いのが欠点。そこは努力で、刃がね土を入れることにより漏水を防ぐ。こうすれば稲を育てることは出来る(但し、この作業は大変で、簡単には出来ない)。なお、こんな処にも、弘法大師伝説があります。ある時、日照りが続き、村人が難渋していると、弘法大師が現れ、杖で地面を突くと、水が湧き出した、というものです。似た話は山形県最上地方にはもの凄く多い。弘法大師が、出羽の国までやってきた、という記録はないので、これは西国からやってきた井戸掘り技術者のことを、寓話化したものでしょう。地面を突いた杖とは、初歩的なパーカッションボーリングと考えられます。井戸掘り技術者とは、地下水開発技術を持った修験道行者の意味とも考えられます。田麦俣の近くには、出羽三山が連なり、古くから修験道が入り込んでいた。修験道の祖である、役行者は前鬼、後鬼を使って地下から水を汲ませた、というから、地下水を探知し、汲み上げる技術を持っていた、と考えられます。その弟子達が全国に散らばり、地下水採取技術を伝播していったと考えられます。これもガイアの恵みである。但し、ガイアは気まぐれなので・・・或いは人間が増長するのを恐れて・・・なにかの拍子に、理由もなく右図のような災厄をもたらすことがある。

1-3-2)空洞(陥没)地盤  
 幾ら硬質地盤だからといって、その下に穴が空いていれば、いい気持ちはしません。地下の空洞は、時間が経てば必ず成長します。成長速度が速いか遅いかで、人間の危機感が違って来るのです。空洞が成長し、地表面との間隔が、ある一定限を越えると、陥没を生じます。その時、始めて人間は、その危険性に気づき、時間が経てば忘れてしまうのです。
 地下の空洞には、自然空洞と、人工空洞があります。
(1)自然空洞
 これの代表的なものは、石灰岩地帯に見られる鍾乳洞です。鍾乳洞は日本の各地に分布し、珍しいものではありません。鍾乳洞は石灰岩の溶触作用により作られるもので、ドリーネやカルストと云った特殊な地形(カレンフェルド)を伴います。つまり、このような地形があれば、必ず地下に空洞があると思った方がよい。本土の石灰岩は、非常に硬いので、簡単に陥没を起こすことはありませんが、数年前岡山県で、陥没事故を発生しています。沖縄本島や南西諸島の石灰岩は、年代も新しく、岩質も比較的軟らかいので、土被りが小さくなれば、陥没の危険性は大きくなります。米軍再編での辺野古沖合埋め立て方式では、将来あちこちで滑走路が陥没する危険性はあります。アメリカでは、石灰岩地帯での宅地開発を禁止している州があるそうです。
 そのほか、私の知る処では、四万十帯中でボーリングで、空洞にぶつかった例があります。空洞はそれほど大きなものではありませんが、原因は不明です。
(2)人工空洞
 これには、旧鉱山の坑道跡とか、特殊な例では、旧軍用トンネルがあります。旧鉱山廃鉱が陥没し、都市災害として注目された例としては、旧筑豊炭田があります。大手の鉱山の場合は、坑道図等の資料が残されており、対策も立てやすいのですが、筑豊のような中小炭坑の密集地や、戦争末期の亜炭採掘では、採掘資料が殆ど残っていないので、系統的対策の立てようがない。その場しのぎの対策しか、出来ない事になります。しかし、少し頭を使えば解決法が出てきます。まず日本の石炭や亜炭と言うのは、殆どが第三紀層の中にある。第三紀層は、主に砂岩・礫岩と泥岩の互層からなる。砂岩・礫岩の中に、石炭が存在することはなく、中間の泥岩の上端か下端にのみ挟まれている。ということは、廃坑は、泥岩の上下端にしかないということなので、疑わしい地域の層序が判れば、少なくとも注意すべき場所は、自ずから判ってくるのです。
 戦争中の軍用トンネルは、炭坑よりは、よほど計画的に掘削されているので、何か端緒が見つかれば、後は芋ずる式に判ってくる。問題は日本の場合、行政が実体を隠すことです。その為、問題が起こったときには、被害が取り返しが付かないレベルまで拡大するのです。

 以上のように、見かけは硬質地盤であっても、その中に欠陥があり、決して安心は出来ない、ということです。

1-4)液状化する地盤
 


1−5)その他の特殊地盤
 以上は日本国内での話しですが、世界にはもっと変わった地盤があります。その幾つかを紹介します。

(1)生物地盤
 生物の遺骸が集まって地盤を作るケースです。主に緯度25゜未満の低緯度地方の沿海に見られます。これらの生物殻は、海水中の炭酸カルシウム(石灰分)を取り込んで出来ています。だから、これらを石灰質地盤と呼んでも良いでしょう。
 日本では沖縄、南西諸島に分布する、コーラルサンドが有名です。これは珊瑚虫の死骸が集まったもの。本土の石英砂に見かけは似ていますが、性質は全く異なる。石英砂は、花崗岩から分離した石英が淘汰を受けて、海岸に集積したもの。石英は化学的に極めて安定だから、機械的に摩耗を受ける以外、無くなることはありません。しかし、コーラルを作る珊瑚虫の殻の主成分は、炭酸カルシウムなので酸に弱い。越境酸性雨が増えれば、溶けて無くなってしまう可能性があります。
 石灰質地盤の特徴の一つに、乾燥しているときは、非常に固結度が高く、大きな強度を発揮するが、一旦水を含むと、強度が大きく低下してしまうことが挙げられます。北アフリカ地中海沿岸地方に、トリポリマール(泥灰岩)と呼ばれる、土壌が発達します。トリポリというのは、石灰質の殻を持つ有孔虫の死骸のこと。これが集まって出来た土壌を、トリポリマールと呼ぶ訳です。今から30年ほど前、アルジェリアセメント公社が、ここにセメントサイロの建設を計画しました。ボーリングを始め、載荷試験や様々な調査をやって基礎を設計し、サイロを建設しました。ところが、それから10数年後、サイロが傾いて大騒ぎ。要するに基礎の不等沈下が生じたのです。何故でしょう。従来の古典土質力学では、土の状態を土粒子・水・空気の三相構造で考えます。この時、土粒子は非圧縮性の剛体とします。土の変形や破壊は、空隙の変化や、土の骨格構造の変形・降伏で説明する。ところが、石灰質地盤の場合、土の骨格を作っているものは、石灰質の殻で、これが荷重を支えている事になる。石灰質の殻の強度など、大したものではない。ここに繰り返し荷重や長期荷重が加わると、殻が降伏し、基礎は沈下する。即ち、石灰質地盤の支持力は、生物殻の一軸圧縮強度で決まる事になるのです。更に、水が入って来れば、骨格を作る石灰分は容易に水に溶けるから、構造は崩壊し、支持力は無くなってしまうのです。
(2)食塩地盤
 かつての海が干上がって、塩分が凝結して出来た地盤です。アメリカのグレートソルトレークが有名ですが、その他アフリカアファー三角帯や、南米チリなどに見られます。食塩が食塩でいられるのは、これらの地域が年間降雨量数oという、世界でも希な乾燥地帯だからです。もし、将来地球温暖化で、これらの地域の降雨量が増加すれば、再び塩湖となり、周囲に高濃度の塩水をまき散らすことになりかねません。
(3)凍結地盤 
 これは(1)(2)とは逆に、緯度50゜以上の高緯度地方(カナダ北部、アラスカ、シベリア等、所謂ツンドラ地帯)及び、アルプス、ヒマラヤ、アンデス等の高山地域で、概ね標高5000m付近以上の高地特有の地盤で、永久凍土層とも云われます。永久凍土層の上に、基礎を断熱処理しないで建物を建てると、家屋の廃熱で、凍土が融解し、建物が不同沈下することがあります。
 今後、地球温暖化が進めば、ツンドラ地帯では、永久凍土が溶けだし、一帯が沼沢地化し、生態環境の変化が懸念されています。又、永久凍土中に閉じこめられていた微生物が息を吹き返し、思いがけない伝染病が流行るかもしれない。更に、高山地帯では、突発的な土石流崩壊を生じることになります。何故なら、凍結中は土中の水は、土中にアイスレンズとして保存されています。だから土と氷は一体になっている。ところが融解すると、水は土と分離し、地盤に間隙水圧を発生させます。その結果、土の有効応力強度は低下し、斜面崩壊を生じるのです。

左の写真は、現在のヨーロッパアルプスの現状。氷河が著しく後退している事が判ります。中央の谷(上部の氷河が未だ残っている、お椀状の地形は、氷河によるカール)末端部が、緩い斜面になっています(写真緑の部分)が、これはかつての氷河の前進で出来た氷堆石(チル)斜面。谷の右岸(写真左側)の斜面中段に、新しい斜面崩壊が発生しています(図中肌色の部分)。その下では、チルの表面を覆って、上部の斜面崩壊による、大量の落石が散乱しています。温暖化によって、岩盤の割れ目に閉じこめられていた氷が融解し、斜面表層に間隙水圧を発生させ、斜面崩壊を発生させたと考えられます。今はこの程度で済んでいますが、温暖化が更に進めば、アルプス・ヒマラヤ・アンデス・ロッキーと言った高山地帯では、更に大規模な土砂災害が発生するでしょう。
 なお、写真左の斜面に、アルプス造山運動による結晶片岩の構造が見られます。
この写真は「地質学会News Vol4 No2」表紙写真を借用
アイガー東壁で大規模岩盤崩壊。報道によれば温暖化により地盤が緩み崩壊したらしい。


2、人工地盤
 人工地盤とは、人間がその労力・技術を駆使して、人工的に作った地盤です。一般に云えば「盛土」と言うことになります。しかし、正確には全てが盛土ではありません。人工地盤には「盛土地盤」と「捨て土地盤」があり、日本の土木では、これを厳密に区別します。何故区別するかというと、第一に造成の方法が異なること、第二に、設計の方法が異なること、第三に、必然的に工事単価が異なるからです。
(1)盛土
 「盛土」とは、用途によって一定の品質基準が要求され、それに従って、品質管理しながら造成される地盤です。道路、鉄道、ダム、宅地造成などが代表的な例です。管理基準値としては、粒径、土質分類、含水比、密度などが選ばれます。宅地造成では、盛土の安定が、開発協議で焦点になることがあります。その場合、一定の締め固め度下での、土の剪断強度を求めておき、それを根拠に安定計算を行うわけです。
 品質管理試験の頻度は、事業官庁により異なります。要するに、同じ人工地盤でも、捨て土なんかよりは、上等に作られて地盤です。
(2)捨て土
 捨て土とは、盛土と異なり、品質管理などしない。切土から出てきた土砂・岩塊を、そのまま埋め立てに使うのが「捨て土」です。産業廃棄物と変わらない。どういうところに使うか、というと、例えば空港島・・・何処の空港島とは云いません。想像して下さい・・・では、水面から下は捨て土で行く。水面上、それも滑走路の下だけを盛土、周囲は捨て土とする。手抜きじゃないか、と思う人がいるかも知れませんが、これは手抜きでは無いのです。当たり前ですが、水面下では、品質管理をしたくても出来ない。空港島の外周には護岸が巡らされますが、それの設計に使う、裏込め土の強度は、転圧しなくても自然の土が、イヤでも発揮出来る値を使う。だから何も無理して品質管理する必要はない。しかし、これは常時での話しです。いざ大きい地震が来ると、そうはそうはいかない。阪神大震災で、神戸港周辺の埋め立て地は、皆液状化被害を受けました。これは、これらの埋め立て地が、捨て土でやってきたからとも云えます。以上のことは、神戸だけではありません。日本中の臨海埋め立て地は皆、「捨て土」でやってきています。これから先もそうでしょう。
 捨て土は臨海埋め立て地だけでしょうか?そうではないから厄介なのです。神戸市須磨区に、かつて神戸市開発局が開発・販売した大規模団地があります。これらは内陸開発ですが、谷の盛土部分を捨て土でやった。捨て土の意味は判りますねえ。粒径管理しないから、直径数m位の転石がざらに入っている。今から20年ほど前、この団地にある、5F建ての鉄筋住宅が、不等沈下で傾きました。場所は盛土区ですが、建物基礎は岩盤に達する(と言われる)クイ基礎です。この時、神戸のあるエライ先生が表れて、「地下水が上昇して、クイ先端の地盤が洗掘されたのだろう」と宣われたのである。犯人は水である。水に手錠はかけられない。従って、事件は有耶無耶。喜んだのは神戸市。さて、皆さん考えて下さい。幾らクイ先端地盤が、軟らかい神戸層群でも、地下水位が上昇したぐらいで、地盤が洗掘される訳がない。もっと軟らかい大阪層群で出来ている、千里ニュータウンや泉北ニュータウンなら、とっくの昔にガタガタになっているはずだ。ワタクシは新入社員の頃、この団地の造成工事を少し見たことがあるが、すさまじいものでしたね。家ほどもある岩塊がゴロゴロ。それらを、重機で選別もせずに、谷に放り込んでいるのだ。さて、計画地盤面が出来て、次は建築工事。建物基礎工事では、当然ボーリングをやります。しかし、建築のボーリングは、要するにクイの長さを決めるだけだから、土木のように五月蠅い事は言わない。N値50以上が2回(つまり1m少々)続けば、支持層と見なして、ハイオワリ。さて、ここに直径5mの岩塊があれば、どうなるでしょう。N値50以上が2回続けば良いんだから、この岩塊を岩盤と誤認して基礎を設計してしまう。さて、問題はこの岩塊の性質なのだ。問題の団地で、切土から発生する岩塊は、俗に「白川石」と呼ばれる酸性凝灰岩。スレーキングしやすい。おまけに岩塊の廻りはおそらく、空隙だらけのスカスカ状態でしょう(捨て土だから当然)。無論、降雨の度に、地下水位は上下を繰り返す。これが、岩塊のスレーキングを促進する。ここに、クイから長期的に持続荷重が作用すれば、岩塊はいずれバラバラになって崩壊してしまうのです。この結果、基礎が不等沈下を生じ、建物が傾くことになります。
 もちろん、神戸市は建物を取り壊し、立て直しました。また、この団地の隣の団地でも、造成後10年以上も経って、家が傾いたり、道路ボックスが沈下したりという騒動が続きました。今はどうでしょう。「捨て土」は当座は安いが、後になって返って高く付くことがある、と言う例です。これも自然を侮って、人間が増長したことに対する、ガイアの祟りとも云えます。
(3)浮体地盤
 関西新空港計画の時、埋め立て案に対し、浮体式工法というものが、鉄鋼業界から提案されました。最近も沖縄米軍再編計画で、辺野古沖ポンツーン計画というものがあった。何れも却下されましたが*2。これらは、地盤というより、構造物というべきです。しかし、正真正銘の浮体地盤が、かつて存在したのです。それは、アステカ帝国の首都テオテワカン(現代のメキシコシテ)です。今から40年以上前、メキシコ地震で、メキシコシテ は壊滅的打撃を受けました。理由は、メキシコシテに地盤が軟弱だったからです。しかし、待てよ、確かメキシコシテの標高は2000m以上あったはず。そんな高い処に軟弱地盤があるのだろうか?と思って色々調べてみると、この街は湖を埋め立てて造成されたのだ。それも浮体式という特殊な工法で。これは、まず葦を使って浮き船を作り、その中に土を入れて、小規模な地盤を作る。当然、沈下するが、その分土を盛り上げる。荷重と浮力が釣り合ったところで、地盤面を作る。その後、これを順次拡大して、大規模な浮体式地盤を造成する。非常に安上がりで、余計な資源を使わない合理的工法。これがガイアの知恵です。しかし、待てよ。もし本当に浮体式なら、水はS波を通さないから、地震がきても揺れる事はないはずだ。しかし、現実には大被害を受けた。おそらくアステカ帝国時代は、本当に浮体式だったのだろうが、スペイン人がやってきて、教会やら総督官邸やらの建築物を造る。更に20世紀になると、北のアメリカから資本家達がやってきて、「もっと土地の経済効率を高めなけりゃ駄目だ」とか云って、やたらビルを建てたがる。そうすると、街の荷重はドンドン増加し、それに連れて浮体もドンドン沈下して、とうとう軟弱な湖底地盤と一体化してしまいました。そこへ地震が襲ったのです。昔のままなら、ガイアの恵みで平穏に暮らせたのに、資本主義という欲望を受け入れたため、ガイアの怒りを買ったのです。似たような都市には、イタリアのベネツアとか、ロシアのサンクトペテルスベルグがあります。これらには、関空と違って、造成に当たって、十分な基礎地盤改良が行われた形跡が見られない。従って、基本的には、水に浮かんだ都市と思って間違いは無いでしょう。
 ユング心理学的に云えば、陸地(ガイア)と海(ポセイドン)が接する、海岸・汀は神聖不可侵の場所である。そういう場所を犯した都市は、そもそもは神々の呪いを受けている事になる。

 浮体地盤は、地震がきても揺れない、という大きな特徴を持っています。建物の耐震設計が不要なので、構造は簡易になり、使い勝手も良い。無論、耐震偽装など起こる筈がありません。それに地面に固定されていないから、日本の税法では固定資産税がかからない筈。但し、津波がくるとイチコロなので、外洋には向かない。日本で使うとすると、瀬戸内海の真ん中とか、琵琶湖や諏訪湖などの内陸湖沼。素材としては、EPS、ジオテキスタイル、ポリマーグリッドなどの応用が考えられます。そんなもの作って、一体何に使うんだ?それはこれから考えましょう。

*2;却下された理由は、技術的に劣るという事ではありません。主に鉄鋼業界と土建業界との政治力の差。沖縄移転問題では、どっちの業界が防衛施設庁の天下りを、多く受け入れているか、がポイントだったのでしょう。

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