《小泉純一郎と東條英機》
 小泉純一郎と言えば、現在の自由民主党総裁であり、且つ日本国総理大臣です。いずれも、一応民主的手続きに則って選任されています。一方、東條英機はかつての陸軍大臣兼総理大臣兼参謀総長。役職だけで見れば、平清盛以来の独裁者で且つA級戦犯です。一方は、戦後民主主義の申し子、片一方は軍国主義の代表です。両者に共通点などあるはずがないというのが、大方の見方でしょう。ところが、両者は様々な点で似通っているのです。
1)異常な高支持率
 第一次小泉内閣の85%に及ぶ内閣支持率は驚異的ですが、東條内閣も発足時支持率75%近くもありました。この数字も驚異的です。何故、このような高支持率が得られたのでしょうか。小泉の場合は、国民が従来の自民党派閥政治に飽き飽きし、小泉ならこういう古い政治体質に風穴を空けてくれるだろう、と期待したからです。何故、期待されたかというと、小泉はかつての権力派閥、即ち橋本派と無縁で、橋本派による政治支配を断ち切れると考えたからです。東條の場合も同様で、国民は軍による政治の壟断、その軍部も幾つかの派閥に分かれ、互いに争う状態に飽き飽きしていたのです。東條は東京の出身、薩摩・長州という権力藩閥とは無縁。中央省庁の勤務は満州事変当時の参謀本部動員課長、その後の陸軍省軍事課長ぐらいで、その後は地方の旅団長や関東軍勤務が主になる。5.15から2.26に繋がる動乱の時期に、東京の政治家や財閥との繋がりが薄かった。これらの点から、これまでの藩閥出身者や政治将軍が出来なかったことを、東條なら出来ると期待されたのです。
 両者が国民に人気があったもう一つの理由に、見せかけだけだが筋を通すということがあります。小泉の場合、内政的には構造改革、外交では日米同盟重視を一貫として主張し、内閣や党執行部人事も派閥バランスは考慮していない。これは筋を通している様に見えます。ただし、ただ単なる頑固な天の邪鬼という見方も出来ます。甘やかされて育った駄々っ子によく見られるパターン。
 東條の場合はどうだったでしょう。当時の日本の最大課題は対中問題の解決にあります。歴代の政府は様々なルートで対中交渉を試みました。政府だけではなく、軍部の一部にも対中解決工作をする動きがありました。例えば、石原完爾による近衛工作、支邦派遣軍による桐工作などです。いずれも日本側の大幅譲歩を前提としています。又、これらの工作は一部の人間による秘密工作です。現代でいうところの、国民の目に見えない密室協議なのです。一般国民からは批判対象になります。こういう工作を通じて何とか対中交渉を始めようとすると、軍部強硬派や右翼政治家、それに悪のりするマスコミが、筋論を展開して工作を批判し、結果として世論を対中強硬論に誘導していったのです。そして、批判勢力の代表が、軍部では関東軍総参謀長東條英機中将(後、陸軍大臣大将)、政治家では鳩山一郎、平沼麒一郎、マスコミでは朝日新聞らだったのです。かれらの主張は、当に日本人にとって筋論であり、正論でした。しかし、東條大将は中国に対する筋を通すことに熱心であったばかりに、対中問題を解決不可能なレベルに押し上げたのです。現代の安部他、見せかけタカ派と似ていませんか。
2)派閥、軍閥との関係
 小泉純一郎は一見、派閥と無関係の様に見えます。本人もその様に振る舞う。しかし、彼がそもそも大蔵族議員で、且つ旧福田派のチャキチャキであることを忘れてはいけません。彼の売りである郵政民営化、道路公団改革も、狙いは橋本派の壊滅にあることは顕かです。特殊法人改革にしても、狙われているのは、敵対派閥に連なる組織で、旧大蔵省関連法人が一向に槍玉に挙がらないのは何故か。我々の感覚では、最もたちの悪い特殊法人は財務省のそれなのだが。客観的に見れば、彼は旧派閥を壊滅させ、自前派閥を作ることを目的としているとしか見えません。ではどういう派閥でしょうか。小泉内閣の構成を見ると極めて特徴的な現象があります。それは慶応が異常に多いことです。竹中は一橋ですが、入閣前は慶応教授ですから、これも慶応と見なすと、第一次も第二次も7人前後が慶応出身です。内閣の、おおよそ半数を一大学出身者が占めるというのは、極めて異常なことです。小泉は慶応による日本支配を狙っているのでしょうか。
 東條も無派閥どころか、統制派のチャキチャキ。永田鉄山の子分を自認し、永田斬殺後は永田敵対派の弾圧に容赦はしなかった。彼が陸相就任後、陸軍の方針が南進論に傾くのは、東條が永田の遺志を継いだまでです。しかし、これによりアメリカと直接対立することになってしまいました。その永田は信州出身で非薩長。陸相になってからは古い軍人や、彼が敵対的と見なした軍人・・・その代表が石原完爾・・・の首を次々に斬って、知らないうちに東條派と言うべき派閥を作ってしまいました。梅津、杉山、寺内、牟田口・・・これらの尻にくっついていたのが辻、服部ら・・・らです。この中で薩長閥に属するのは寺内だけ。彼らは統制派の中でも更に強硬な、改革派と云われる連中です。そういえば東條は満州で、革新官僚と云われる岸信介、新財閥の代表鮎川義介らと親交を重ねました。彼らは改革派を自認し、世間もそう呼んでいたのです。小泉も東條も派閥・軍閥とは無関係ではない。それどころか大変濃密な関係を持っていたのです
3)生まれと育ち
 小泉は三世議員。父親は国務大臣をやったらしいが、どの内閣のどの職務だったかはよく知られていない。権力派閥に属していなかったため、党内序列はあまり高く無く、マスコミの注目度も低かったのかもしれません。これが逆に彼の権力派閥に対する敵愾心とも云える反発心を作ったとも考えられるのです。
 東條大将の家系も徳川以来の御家人。二代続いた軍人家系で、父は戦術の権威といわれた東條秀教中将。日露戦争の前に待命予備役編入。大将になれなかったのは、賊軍の出身だから薩長閥に疎まれたという説があります。東條大将がこの説を信じない筈がありません。東條が古い軍閥を憎んだのは当然なのです。
 このように両者とも、その世界では名門に生まれていながら、父親が必ずしも世間・・・というより時の権力者に受け入れられなかった点が共通しているのです。この手の人間は、しばしば異常に向上心が強かったり、既製権力階層に敵愾心を燃やすのです。従って、この原体験がその後の人格形成に無関係であったとはいえないでしょう。
4)性格
 両者の性格上の共通点として、正直で涙もろいことがまず挙げられます。つまり、性格は本質的に感動型で、特に自分に近い者に対する情愛が、他より深い傾向になります。これを裏返すと、激情型で敵に対して執念深く、自分との距離が遠いものには関心が薄く冷淡にもなるのです。以下、両者について検討してみましょう。
(小泉純一郎)
 就任直後、靖国参拝戦争記念館で特攻隊の写真を見た時に涙を流したり、負傷した貴乃花の優勝旗授与に感激したり、更に国会答弁で髪の毛振り乱しての絶叫など、彼が激情型である証拠は十分にあります。又、今回の内閣改造でも、あれほど与・野党から評判の悪い竹中金融相、川口外相、山崎幹事長、飯島秘書官らを留任又は昇任させています。自分に近い人間には甘いのだ。一方で、彼は自分の興味が無いテーマについては極めて冷淡です。首相就任直後、明石で歩道橋事故が生じた。数100人の死傷者が出る大事故です。台湾や韓国なら、政府首脳の談話があってもおかしくないレベルです。しかし、かれは箱根で静養中で、前後は息子とキャッチボールをしていました。また、あるテーマについて官僚が説明しても、興味が無ければ質問もせず、黙って資料を突き返したりすると云われます。つまり、極めて感情の起伏が大きく、外的刺激に対する反応が極端で、周辺社会との調和性に欠けるのです。このタイプは、神戸のA.S或いは長崎の少年に見られる性格と共通しています。現代の精神病理学では環境不適応症と診断されます。

(東條英機)
 東條大将の特徴は冷徹で合理的である、と云われます。常にメモを欠かさず、あらゆる点について数字を根拠に説明する。その態度が、科学者である昭和天皇にいたく気に入られた所以と云われます。しかし、大将の性格はこれだけでは割り切れません。昭和12年、シナ事変が発生すると、東條中将は関東軍を指揮して北支に侵攻します。参謀長が軍隊を指揮する、という帝国陸軍にあってはならない事態です。それはそうとして、中将は野戦病院を見舞って負傷兵を見ると、思わず落涙したり、兵士の家族の窮状を聞くと、俸給袋を投げ出すなど、結構涙もろく、感激家タイプなのです。太平洋戦争の戦況が逼迫すると、東條内閣に対する世間の眼も厳しくなります。特に評判が悪かったのは、海軍から「東條の男妾」などと蔑称された海軍大臣島田繁太郎大将です。しかし、大将は最後まで島田大将を庇い続けました。又、現地軍からも、参謀本部からも、陸軍省からも無謀とされたインパール作戦を、子分の牟田口に泣きつかれると、認可してしまいました。自分に近い者には甘いのです。しかし大戦中、大将が前線を視察して兵士を励ましたという記録は殆どありません。自分から距離の遠い者に対しては冷淡なのです。敵のチャーチルやローズヴェルトは、機会を見て前線視察を繰り返していたにも拘わらずです。これではやっぱり戦争に負けるでしょう。
 二人の性格上の共通点は正直で、律儀で頑固だということです。根は善良なのです。ブッシュも本質的にはこれです。正直で善良であることは、日本ではそれだけで全て良い人になります。しかし、この徳目は平和な時代にのみ有効なのです。東條大将も平和な時代であれば、実直な官僚軍人として着実に出世の階段を登り、但し想像力に乏しい傾向があるので大臣・総長は無理だから、教育総監あたりで待命予備役編入、一件落着になったと思う。時代が彼のような凡庸な人間を権力者に押し上げたのでしょう。小泉にしても、周りが勝手に墜ちていったから浮き上がっただけです。そして、歴史では指導者が正直で善人である国家ほど、国民が不幸になるケースが多いのです。
5)女性問題
 女性問題「といっても、色恋沙汰ではありません。両方とも、この種の問題には恬淡としていたようです。ここで云う女性問題とは、政策決定に関し特定の女性により、影響を受けていた疑いがあるのです。小泉総理については、よく週刊誌で取りざたされる二人の姉の存在です。東條大将の場合は、婦人で国防婦人会会長だった勝子です。田中隆吉手記によれば、大将の恐妻家ぶりは有名で、細部に至るまで婦人と相談して決定し、婦人は将官人事まで干渉していたと云われます。
 小泉氏の姉が何処まで干渉しているかは不明ですが、彼自身幼少期に母を亡くし、更に離婚経験者である点を考えると、小泉氏と姉との関係は通常のものでは無いだろう、というのは容易に想像出来ます。
6)敵に対する報復
 両者の更に共通点として、私敵に対して権力を使って執念深く報復することが挙げられます。まず、東條から述べて行きましょう。先に述べたように、東條は統制派で永田鉄山の子分を自認していました。相沢事件当時は関東軍憲兵司令官。事件が起こると、関東軍内の皇道派将校に目星をつけ、2.26事件が発生すると一斉に検挙しました。事件との関わりあるなしに拘わらずです。永田の報復以外の何者でもありません。昭和13年、石原完爾が関東軍参謀副長として満州に着任します(東條は総参謀長)。同じ統制派でも、東條と石原では肌が合うはずがありません。石原は東條の頭の悪さにあきれて、おおっぴらに東條軍曹と呼び、更に東條上等兵までエスカレートして、とうとう勝手に日本に帰ってしまいました。石原は、その後、舞鶴要塞司令官、京都第16師団長になりますが、その時東條が陸軍次官として、中央に帰ってきます。東條は憲兵を使って石原の身辺を調査し、難癖を付けて予備役に編入してしまいます。石原は立命館大学総長末川博の招きで、立命館大学教授に就任しますが、東條は更に憲兵を使って立命館にも圧力を加えたため、とうとう石原は立命館も辞職して、郷里の鶴岡に帰ることになったのです。
 一昨日の(10/19)インターネットで、小泉首相が中央線の開かずの踏切対策を、国土交通省に指示したことが報じられました。しかもタイからです。たかが1鉄道の交通対策など、総理大臣の口出しすることですか!。問題区間は民主党代表管直人氏の選挙地盤です。選挙目当てであることは顕かで、かつて東條がゴミ箱の中身を調べて国民の人気とりを計ったのと同じ発想です。更に、小泉はこれまで管氏に国会で何度も恥をかかされてきました。小泉の頭の中に、管への復讐の念があってもおかしくないのです。個人的な復讐を国家権力を使って果たす。まさに東條にそっくりです。


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