日本最古の旧石器?   島根県砂原遺跡

 昨年九月に発見された島根県砂原遺跡の旧石器遺物。最近、これの真贋論争が活発です。要するに、これが石器と言えるのか?という話しだ。筆者は当初からこれが石器と言えるかどうか疑問を呈しています。やっと、日本の考古学界はワタクシに追いついてきたか?日本の考古学界の最大の欠点は、遺物の形態だけに執着する事で、それが発見された場所の地形・地質学的検討が殆ど行われないことです。地形の方は何とかなっているかもしれないが、地質学的検討はもの凄く遅れている。元々その教育を受けていないから仕方がない。砂原遺跡の場合、慣れた地質屋が一目見れば、あんなもの石器ではないと断定するでしょう。考古屋はもっと地質学、特に堆積学、構造地質学に関する知識を深めるべきだろう。
(10/07/07)

これは09/09/30に、12万年前の旧石器と報道されたサンプルです。本当に石器でしょうか?(09/010/01)
何だか知らない内に、これが本当に石器かどうか随分話題になっているようです。(10/07/07)

1)旧石器とは打製石器が当然である。
2)サンプルの内、右三個は摩耗が進んでいる。果たして摩耗の原因はなにか?
3)製作後、直接地層中に固定されたとすると、風化は進むが摩耗が生じることはない。製作直後の形が残るはずである。
4)摩耗には人為的研磨と、水流中での衝突摩耗の二つがある。旧石器とするなら、人為研磨の可能性は少ない。逆に人為研磨なら旧石器の可能性が少ないことになる。河川の中でもこのタイプの亜角礫は出来る。むしろ河川の中の方が出来やすい。
5)サンプルのあちこちに鉱物がボロッと剥がれた跡がある。造岩鉱物は粗粒で、剥がれやすい。何かの衝撃によるものである。
6)色調や表面の構造から、サンプルの材料は、出雲地方に多い花崗岩又は流紋岩と考えられる。これらの岩石が石器材料として用いられることは少ない。堅いが脆いためである。4個の内3個までそうだというのは異常である。
7)左の1サンプルは右3個と形は異なり、材料も異なる可能性がある。おそらくは安山岩かその類のダイク。このような岩石は割れ目が多いので、河川を流下する過程で、硬質な岩石に衝突すれば、このような形に砕ける事は珍しくない。
8)石器と断定するには証拠が弱い。次の点について今後検証が必要。
@サンプルが発見された場の環境が、運搬・堆積の場でないことの、地質学的・堆積学的証明。例えば、面的に発掘し、遺物の分布が自然のものか、人為性であるかの検証。
A何らかの生活痕(たき火の跡とか、埋葬の跡など)との共存の証明。

 そもそも、日本で旧石器時代があるかどうかが話題になる原因は、次の二つがある。
    1)日本に旧石器文明があったかどうか?
    2)日本に前期旧石器文明があったかどうか?
1)日本に旧石器文明があったかどうか?
 これは明治以来の東大津田左右吉派対東北帝大の学派的対立にある。東大派は日本に旧石器文化は無かったと結論付けた。それに対抗したのが東北帝大である。折しも、大正昭和期には、第一次大戦の勝利もあって、ジャパンナショナリズムが勃興した時期。この時期に秋田の大湯環状列石や、その他の石造遺跡が発見された。更に酒井勝軍の日猶同根説、竹内巨麿の竹内文書など怪しい古史古伝が発表され、軍部右翼の支持もあって、日本にも古代文明があった、という民族的感情が、日本旧石器文明説を後押ししたのである。これが第一次東北ブーム。
2)日本に前期旧石器文明があったかどうか?
 1)の問題は、前期旧石器問題と後期旧石器問題の二つに分かれる。後期旧石器については、戦後の岩宿遺跡の発見で片は付いたが、前期の問題は残っていた。高度経済成長とともに東北古代文明論が復活する。戦前のジャパンナショナリズムの再生産である。これはマスコミの後押しもあって、第二次東北ブームとも云える社会現象を引き起こした。例えば、「東日流外三郡史」とか、環日本海交易文化である。全てインチキか錯覚である。これらを学術的にサポートしてきたのが、東北大学考古学教室と、地団研を始めとする反米左翼学術団体。井尻正二とか舟橋光男。彼等もアンチ東大派。数年前、東北で旧石器遺跡ねつ造事件というのが起こった。これも前期旧石器問題が背景にある。そして、バックにあったのが東北大学考古学教室。東大対東北大の因縁の対立は未だ続いていたのだ。
 何故こんなに揉めるのか、というと、最大の問題は旧石器については、旧石器と称される遺物(イシコロ)は出てくるのだが、それに伴う人骨が一向に発見されないことである。ヨーロッパでは石器だけでなく人骨も出土し、更に温暖化の影響で、氷河に閉じこめられていた生体化石まで出土している。人骨が出れば、確実に年代を決定出来る。だから疑う余地はない。一方、日本では旧石器時代人の人骨化石が発見されて来なかったから、「石器」という間接証拠に頼らざるを得なかった。そこで問題となるのは、何をもって石器と判定するかの基準である。これは、明治以来ヨーロッパで使われてきた基準が使われてきた。しかし、ヨーロッパと日本とでは数1000qも離れている。石器の製造法も、独自の進化を遂げていて当然である。だから、石器認定法も地域によって異なって当然。しかし、日本(だけではないかもしれないが)では、ヨーロッパ流の石器認定法を学んだエライ先生の一言が、全てを決定出来る世の中を作ってしまった。そしてその先生から学んだ学生が広がっていっっため、日本の考古学は世界でも希な、独特の世界を作ったのである。前述の石器ねつ造事件も、この延長線上にある。人骨という、決定的証拠による比定がないままに来てしまっているから、日本の旧石器時代論は、どことなく文学的情緒的性格が漂わざるをえない。
 


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