21世紀セポイの乱・・・・インド マルチ・スズキの労働争議

 1857年、イギリス東インド会社東ベンガル連隊の兵営で、一部の兵士が暴動を起こした。暴動はたちまち兵営全体を巻き込み、兵士は兵営を占領するとともに、市街に居住するイギリス人を襲い殺害した。この情報はたちまち他の部隊にも伝わり、ヒンドスタン各地の部隊が合流した。更にパンジャブ地方のイスラム部隊もこれに加わる。彼等は首都デリーに向かって進軍し、イギリス人の追放、皇帝の復権を要求した。世に言うスパーフィー(セポイ)の乱の始まりである。
 スパーフィーとは中東〜西アジア地方の傭兵のことで、中世のアラブ王国やオスマントルコ帝国にも存在した。インドではムガール帝国が採用し、イギリスがそのまま引き継いだのだろう。前世紀末からインドムガール帝国は統治意欲・能力をなくし、行財政・司法・軍事の全てをイギリス東インド会社に売り渡し、皇帝は会社から年金を受け取り、ひたすら詩作や音楽などの技芸に憂き身をやつす生活になってしまった。一方帝国から施政権を任されたイギリスは、この国にプロテスタント資本主義を持ち込んだ。プロテスタント資本主義はマックスウェーバーを持ち出すまでもなく、不労所得を敵視する。不労所得の典型が不在地主である。祖先から受け取った土地を、そのまま農民に貸し出し、地代を稼ぐわけだから、労働価値説に立つプロテスタント原理主義者の理解が得られる分けがない。それでこの時期、イギリス本国では不在地主訴訟が相次ぎ、国家は地主不在の土地をみんな取り上げて国の資産にしたり、競売にかけて儲けていたのである。このシステムをそのままインドに持ち込んだから、混乱が起こらないわけがない。混乱とは、それで被害を蒙るものもいれば、儲けるものもいる、ということである。一般に歴史は被害者のことは大げさに伝えるが、受益者は知らん顔である。
 当時インドの最大不労所得者層といえば、最上位カーストであるバラモン階層である。彼等は法典により、労働から利益を得ることを禁じられている。バイシャのように金融からの利得も禁じられている。彼等は、教育とか司法とか宗教のような、非技能的分野からしか所得を得られない。しかし、そんな職業は幾らでもあるわけではない。唯一の例外的所得源が地代収入だったのである。ところが皇帝の許可を得てやってきたイギリス人が、地代収入まで禁止してしまった。困窮した彼等が選んだ道がスパーフィー、即ち傭兵だったのである。しかし、逆にバイシャやスードラは、シッカリ利益を得ていた・・・スードラは蓄財は禁止されていない・・・のである。これがこの反乱の結末を複雑化させ、結局は失敗に終わった原因になった。
 そして1857年のある日、東ベンガル連隊で、あるトラブルが発生した。当時の兵営は一種の自己完結型社会で、軍隊を維持するに必要な機能が全て兵営内に用意されていた。その中には馬具職人、弾薬や蹄鉄を作る鍛冶屋など職人もいた。当時の(今でもそうかもしれないが)インド社会では、彼等職人はアウトカースト階層である。又、兵士の食事の世話をするのは下位のスードラ階層である。つまり当時のインド兵営は、現在の日本企業のような同質社会ではなく、複数のカーストが混在する、複雑な差別社会だったのである。そしてそれは、日常的に使う井戸にも及ぶ。
 その日、下位カーストの職人が、誤って上位カースト用の井戸水を使おうとした。それを見た上位カーストの下士官が彼をこん棒でぶん殴った。ところが、それを見たイギリス人の将校が、意味もないのにぶん殴るとは怪しからん、とその下士官を営倉にぶち込んだ。騒ぎがこれで収まればよかったのだが、それを見ていたインド人下士官や兵士が暴動を起こし、くだんの下士官を解放し、これで収まらず兵営を占領し、市街へ押し出していったのである。これがその後10年に及ぶインド大乱の前段である、スパーフィーの反乱の始まりだった。
 さて先週、日本のスズキのインド法人マルチ・スズキ マネサール工場で、インド人労働者による暴動が起き、死傷者が発生した。この背景は、今のところネット情報に頼るしかないが、概ね次のようなところらしい。1)インド人の上司が部下の勤務態度を注意した。2)それに不満を持った他の労働者も一緒になって暴動を起こした。3)会社側は事態収拾のために労働組合と話し合いの場を持った。3)この最中、労働組合側が協議の場を襲撃し、この騒ぎでスズキの社員も負傷した。4)警察が介入し、90人あまりが逮捕・拘束された。なお、この背景にカーストが存在すると見る向きもある。
 これを150年前の東ベンガル連隊の兵営に置き替えてみると、イギリス人将校が日本スズキ社員。労働者がスパーフィー。さしずめ部下に注意した上司が上位カーストの下士官、注意された側が下位カーストの職人といった役割か。ほんの僅かなトラブルが、たちまち全兵営(工場)を巻き込む大騒動に発展したのもそっくりである。違うのは、150年前はイギリス人が上位カーストの下士官を営倉にぶち込んだが、今回はスズキが下士官の側に立っていることである。一般には、この騒動の背景は経済発展に伴う格差拡大という説明がなされている。しかし、それだけでしょうか?150年前のインドも、イギリスからの投資が活発に行われ、大きく経済が発展した。その結果カースト、下位カーストを中心にブルジョワジー階層が発生した。これが上位階層の没落を導き経済格差が発生した。一方経済発展はナショナリズムも刺激する。自信が沸いてくるのだ。そうすると、外国人に指示・支配されている状況が不条理に見えてくる。そこに何かがきっかけが加われば、暴動・反乱に結びつく。しかし、常にそうとは限らない。ソレトニンーTーDNAの多い東南アジア人は、あまり直接行動に移さない。逆にドーパミン(アドレナリン)ーTーDNA の多い、騎馬民族系は直ちに集団・直接行動に移し、暴動・反乱、果ては革命まで行き着くのである。インド北部は騎馬民族系であるアーリア人が多く住む。
 というわけで、海外に生産拠点を設ける場合は、当地の賃金・経済は云うまでもなく、文化・伝統・宗教を考慮に入れるのは当然、それどころかDNAレベルで調べて置かなければならないのである。

 さて、デリー王宮を占領したスパーフィー達のその後の運命や如何にというと、たちまち始まったのが内輪もめ。もともと明確な指導者なしに始まった争乱だから、路線争い、権力争いにばかり時間を費やす。特に、カーストを否定するイスラム教徒とヒンズー教徒との対立は激しく、イスラム勢の離脱という事態を招いた。その間北西部で体制を立て直したイギリス軍が反撃を始める。イギリス側は皇帝とその側近を抱き込み、無罪を引き替えに裏切りを進める。そして起こったのがデリー兵営の火薬庫爆発事件。弾薬を無くした反乱軍側は打って出るが、イギリス軍に完敗。ここに足かけ2年に渉ったスパーフィーの乱は終わった。しかしその後10年に渉って、インド各地で反英暴乱が続いた。
 スパーフィーを裏切った皇帝がどうなったかというと、イギリス側に逮捕され、国家反逆罪で裁判にかけられ、最期はニコバル島の流罪となった。空位となったインド皇帝はイギリス女王が兼ねることになり、ここにイギリスによるインド植民地化が完成したのである。
 この騒ぎをよこから見ていた一人の青年がいた。ロンドンタイムス特派員としてインドにやってきた、カール・マルクスというドイツ系ユダヤ人である。彼は後に、この反乱が失敗に終わった原因を、「共産党による指導が無かったからだ」と判断した。指導者なき反乱の最期がどうなるかを、この事件がよく示している。マルチ・スズキマネサール工場の騒ぎも、その背景をよく把握する事が重要である。


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